本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

あなたはイメージよりも広大な存在

人があなたに付けたイメージは断片的なものでしかない。

ある意味的を得ている部分もあるかもしれないが、それはあなたの一部を切り取ったものにすぎない。




僕もかつてはよく言われたものだった。

おとなしいとか礼儀正しいとか、真面目だとか慎重だとか。



恐らく、多くの人の目にはおおむねそのように映っていたのだろう。

そして、それらの評価通り、表面上にはそうした気質がよく現れていたのかもしれない。



以前はよく、そのイメージこそが真の自分であると信じて、そちらに自分を合わせていた。

いつしかそんなイメージがとても窮屈になっていた。




だが果たしてイメージ通りの自分だけかというと、全くそんなことはない。

僕にも自己顕示欲もあれば、ユーモアの心だって持っているつもりだ。




人が自分に対して持つイメージというものは大体そういうものではないだろうか。

丸っぽい図形を見て、これは丸だと言うようなものだ。

それは丸っぽいというだけで、へこみやでっぱり、角ばった部分もあるかもしれないのだ。



人があなたに付けたイメージに囚われる必要はない。

あなたはもっと広大で深淵な存在だ。

人は便宜上、イメージという狭い枠組みにあなたを当て込んでいるだけだ。

もちろん、あなたがトレードマークとしてそのイメージを気に入っているのなら、それを利用してもいいかもしれない。

だが、そこに縛られてしまうのは非常に不自由だし、あなたの可能性を狭めてしまうと僕は思うのだ。




少しずつでもいい。

イメージというちっぽけな虫籠から脱してもいいのではないだろうか。

もっと自分に素直になってもいいはずだ。

もっと自由に表現してもいいはずだ。

あなたという存在は、無限なのだから。

人と争わなくても、人を傷つけなくても、むやみに自分を主張しなくても、あなたは自由に自分を表現できるはずだ。

存在への絶対的自信

あなたは自分の存在に絶対の自信を持っていい。


今は持てなくてもいい。


しかし、真実として、あなたの存在は絶対なのだ。




あなたが・・・




どんなに失敗しようと。


どんなに人から批判されようと。


どんなに自分に惨めさを感じていようと。


どんなに他人が優れて見えようと。


どんなに自分が劣って見えようと。


どんなに自分のことが嫌いであろうと。


どんなにできない自分が許せなかろうと。


どんなに原因不明の倦怠感を感じても。


どんなに無力感を感じても・・・




それらに関わりなく、あなたはたしかに今、そこに存在しているのだ。


あなたの心は苦しくて、あなたから離れ、過去や未来に逃避しようとするかもしれない。


今はそれでいいのだ。




たとえそうであったとしても、意識をそっと呼吸や体に置いてみると・・・


たしかに今、そこにあなたは存在しているはずだ。


これは紛れもない事実だ。







あなたの存在は絶対なのだ。


だから、自分の能力や人の評価に関わらず、あなたの存在には絶対的に価値があるのだ。





能力や人の評価や行動結果は、一時的で相対的なものだ。


しかし、あなたの存在は、あなたが生きている限り、途切れることなく永続的に続くものだ。


だから、存在への自信こそ、真の自信なのだ。


存在への自信が持てれば、外的要因に対する自信は後からどうとでもなる。


僕はマインドフルネスを深めることによって、そのことを確信した。




これはボジティブシンキングでも虚勢でもない。


自分自身に評価を下さずに忍耐強く観察した結果、得られた洞察だ。

そのままでいい

僕はずっと、自己肯定感が持てなくて苦しんでいました。

 

そこでなんとかこの苦しみから抜け出したいと、何冊も心理読み物を読みました。

 

しかし残念ながら、僕が読んだ心理読み物では、自己肯定感は根本から高まることはありませんでした。

 

それはなぜでしょうか。

 

それは、心理読み物に書いてあるようなポジティブ思考ができる人間になろうと、僕自身が「別人」を目指したからです。

 

そして、そのようになれない自分を責めていました。

 

僕はあなたにはっきりと申し上げたい。

 

もしあなたが「本質」つまり「あるがまま」のあなたで楽に生きたいと願うのなら、あなたはそのままのあなたでいいのです。

 

もしあなたが自分のことを欠点だらけだと思っているなら、その欠点だらけだと思う自分のままでいいのです。

 

欠点というものは、ものごとをある一面でだけで捉えた結果、生じるものです。

 

ものごとには必ずメリットとデメリットが存在します。

 

もしかしたら、あなたの特性はデメリットに焦点が当てられ、欠点と捉えられることもあるかもしれません。

 

しかし、今は分からないかもしれませんが、あなたの特性には必ずメリットがあります。

 

そのメリットに焦点が当てられ、あなたの特性が長所となる局面がきっとあるはずです。

 

だから、あなたは欠点だと思う特性を無くそうと努力する必要はないのです。

 

僕が就職活動をしていたころもそうでした。

 

企業では外交的・社交的な人材やジェネラリストが求められる傾向にありました。

 

だから、コミュニケーション上手ないわゆる「明るい人」や、広く浅くこなす器用な人がもてはやされる時代でした。

 

そのため、当時の就活マニュアルでは、いかに自分を明るく社交的な人間に「見せる」かということが頻繁に書かれていたかと思います。

 

僕はどちらかといえばそれとは逆のタイプ、つまり内向的で「狭く深く突き詰める」ことが得意でした。

 

だから当時の僕の特性は、多くの企業にとっては欠点と捉えられるものだったでしょう。

 

今はある程度、多様性が認められる時代になりました。

 

物質的価値だけでなく、精神的なものへの価値も高まってきました。

 

すると、この内向的で、ものごとを突き詰める特性がとても役に立つ局面が現れるようになったのです。

 

以前は自分の内向的な部分が嫌いでしたが、今では内向的でよかったと思っています。

 

しかし、そのままのあなたであることを認めたら、今の自分が抱える課題が解決できないと思うかもしれません。

 

その気持ち、よく分かります。

 

僕もそれが怖かったから、そのままの自分ではない自分、つまり「別人」になろうと、もがいてきたのですから。

 

だからこそ、僕はあなたにはっきりと伝えるでしょう。

 

それでもあなたはそのままのあなたでいい。

 

課題を解決するために、「別人」になる必要はないのです。

 

そのままのあなたで、ものごとへの関わり方だけを変えればいいのです。

 

人間関係を改善したいからといって、社交的人間になろうとする必要はないのです。

 

内向的で口下手なあなたでもいいのです。

 

そのままのあなたで、人間関係の改善を目指せばいいのです。

 

(さらに言えば、あなたが思うほどあなたは口下手ではないかもしれませんし。)

 

怖がりだからといって、度胸ある人間になろうとする必要はないのです。

 

怖さを感じるまま、ものごとに取り組めばいいのです。

 

また、そのままの自分であることを認めたら、怠け心に支配され、その課題を解決しようと努力しなくなるのではないかと心配かもしれません。

 

それでもあなたはそのままのあなたでいい。

 

その課題を解決しようと決心しているあなたは、そのままのあなたでもきっと、努力を続けます。

 

今は怖くても、どうかそれだけは信じてください。

 

しかし、ならばそのままの自分でものごとに取り組んで、その課題が解決しなかった場合にどうすればいいのでしょうか。

 

もし、あなたがまだ、さらなる工夫や努力をしたいと思うなら、そうしてみてもいいかもしれません。

 

もちろんそのままのあなたで。

 

しかし、あなたの「本心」が、もうそれ以上やりたくないと感じているなら、その課題は本質的に、あなたには解決する必要がないものかもしれません。

 

あなたは本来、その課題を解決する役割を担っていないのかもしれません。

 

残念かもしれませんが、そのときはその課題を諦めてもいいかもしれません。

 

そして、自分に見合った別の道を探してみてもいいかもしれません。

 

もし、あなたが「本質」で生きていきたいのなら、僕はあなたにそうすることをおすすめします。

どんな感情もそのまま感じていい

こんなふうに感じてはいけないと考えて、起こった感情を押し殺す癖はありませんか?

どんな感情もあっていいのです。

そして、そのまま感じていいのです。

なぜなら、その感情もあなたの一部なのですから。



ここではこう感じるべきだ、こう感じるべきではない。

誰がそんなことを決めたのでしょう。



つまらないものはつまらない。

怖いものは怖い。

嫌いなものは嫌い。

それでいいのです。

ただそういう感情があるだけです。

起こった感情を否定する必要は何もないのです。



もちろん、今までその感情を避けてきたのであれば、いきなり真っ向からぶつかるのは刺激が強すぎるかもしれません。

焦る必要はありません。

まずは観察から始めてみてもいいかもしれません。

そして、まるで冷たい水に足を漬けるように、少しずつ少しずつ、その感情に触れてみるのです。


不快な感情を感じたからといって、そのとおりに行動する必要はないのです。

怒りが沸いたからといって、相手を殴らなくていいのです。

暴言を吐かなくていいのです。

ただ怒りを感じればいいのです。

どうしても暴言を吐きたくなったら、頭の中で言うか、その場を離れ、人に聞かれない場所で一人で言えばいいのです。

ときには仲のいい友人に愚痴をこぼすのもいいかもしれません。



もちろん慣れないうちは、不快な感情をすぐに払いのけようとしたり、押し殺そうとするかもしれません。

しかし、何度も練習を重ねると、少しずつそのまま感じられるようになるでしょう。

そして、不快な感情を避けるために努力するよりも、そうするほうが楽だということに気づくでしょう。

これを重ねると、あなたは「そのままの自分でいいのだ。」という真の自信を身につけるでしょう。


こうしてあなたは「ありのまま」すなわち「本質」に近づいていくのです。

嫌いなものを嫌いと認めることも愛

このような経験をお持ちの方はいないでしょうか。

何かを嫌いになってはいけないと考え、ことさらにその対象を好きなのだと自分に言い聞かせようとする。

もしくは好きなふりをする。

ほんとうはそれが嫌いなのに。



巷にあふれる読み物には美辞麗句があふれているかと思います。

だから、それを真に受けてしまうかもしれません。


愛にあふれる人というのは、何にでも好意的に接することができるのだと解釈するかもしれません。

それで、あなたも「人を嫌ってはいけないのだ。」という想いを強化したのかもしれません。



僕は好意と愛は別物だと思っています。

好意は感情です。

愛は態度です。

好意のあるなしと愛とは、まったく関係ないとまでは言いませんが、必ずしもリンクするとは限らないのではないでしょうか。


愛とは、ものごとのあるがままを認めようとする態度ではないでしょうか。

ならば、嫌いなものに対して好意があるふりをするのは、むしろ愛とは遠い態度だと思います。

それは自分の嫌悪感をあるがままに認めていないことと同じではないでしょうか。

つまり、自分を偽っているのではないでしょうか。


もちろん好意が持てるなら、あるに越したことはないでしょう。

しかし、感情は持とうと思って無理に持てるものではないと僕は思っています。

今の段階で好意がないのなら、自分はこれが嫌いなのだ。と認めてもいいのではないでしょうか。

もちろん、わざわざ嫌いであることを表明しなくてもいいと思いますし、態度に表す必要もないでしょう。



嫌いであるという感情を抑圧せず、その存在をあるがままに認めること。

しかし、その感情にむやみに同調せず、相手にもその感情をぶつけないこと。

それが本当に愛のある態度なのだと僕は思います。

正常分布

僕は人混みがとても苦手です。

人が密集した場所からは早く離れたいと感じます。

満員電車に揺られて毎日通勤するような生活は、僕には耐えられないでしょう。

人間らしい自然な状態とは到底思えないのです。

しかし、これは僕の感じ方です。

満員電車に揺られながらでも、今の仕事は自分にとって好ましいからと満足して続けている人もいるでしょう。

都会のほうが住むに便利で、それに比べれば混雑は問題ではないという人もいるでしょう。

電車内で入り口付近が混雑し、通路が空いている場合、僕はできるかぎり通路に入ろうとします。

しかし、混雑した入り口付近を選ぶ人も大勢いるのです。

わざわざ人の波を縫って通路に入るのが面倒くさいから、そこに留まるほうがまだましなのかもしれません。

目的の駅に着いたときに少しでも早く電車から出たいのかもしれません。

いや、もしかしたら、混雑に身を置くことが心から好きな人だっているかもしれません。

だから、これは持論ですが、僕はみんな自分の感じ方に合った環境に身を置いていいのではないかと思うのです。

朝のラッシュに耐えて、都市部で働くだけがすべてではないでしょう。

山間部でスローライフをするだけがすべてではないでしょう。

幸い、日本には都市部もあれば、農山村や漁村もあります。

みんながみんな、都会を目指したいわけじゃない。

みんながみんな、田舎暮らしが好きなわけじゃない。

どちらが良い・悪いではなく、どこが自分にとって心地よいかということではないでしょうか。

自分の感じ方によって住む場所を選ぶことでこそ、人間の「正常分布」が進むのではないかと思うのです。

もちろん、住む場所を変えるということは、人生においてとても大きな変化と感じる人が多いでしょう。

お金がかかるかもしれないし、人間関係や仕事にも影響があるかもしれません。

だから、誰にでも勧められることではありません。

しかし、今いる場所が自分には合っていないのに、何かよくわからない罪悪感のようなもので「ここにいなくてはならない。」と考えてとどまっているくらいなら、旅に出てみてもいいのではないでしょうか。

イワナはフナが好むような栄養の多い水辺では生きられません。

みんながみんなフナではないのです。

そして、イワナはフナではありません。

現代社会では、みんながフナのようにタフであるべきだと思っているように感じます。

もしあなたがイワナだと自覚したのなら、フナのように生きられないことに罪悪感を感じる必要があるでしょうか。

フナと同じ河でフナと同じように泳ごうとする必要があるでしょうか。

寿命を縮めてまでその泥が多い河で泳ぎ続ける必要があるでしょうか。

イワナにとって生きやすい河で泳げばいいのではないでしょうか。

今こそ「忍耐するとき」

あなたに目標があって、

 

あなたがそれを成し遂げようと決心したのなら、

 

僕はあなたに「忍耐すること」をおすすめします。

 

 

 

どんなものごとにも成就するために必要な時間があります。

 

また、ものごとが移り変わるには、段階というものもあるでしょう。

 

そして、その長さや段階はものごとによって異なります。

 

 

 

気の遠くなるような年月を経て、大地から水晶が形成されるように。

 

さなぎが蝶になるように。

 

 

 

巷にあふれる自己啓発本や生き方指南書は、プロセスをすっ飛ばして理想的なゴールの姿だけを示したものが大半でしょう。

 

だから、生真面目な人は、今その姿ではない自分を責めてしまうかもしれません。

 

しかし、そんな必要はないのです。

 

あなたがそこに到達するには、それにふさわしい時間が必要だからです。

 

 

 

 

また、ゴールの姿が良くて、今の自分が悪いと思うかもしれません。

 

だから今の自分を否定してしまいたくなるかもしれません。

 

 

 

 

ゴールはゴールです。

 

今の自分は今の自分です。

 

自分がどちらの状態が好きかとか、自分にはどちらの状態が心地いいかというような違いはあるかもしれません。

 

しかし、真の意味でゴールと今の自分に優劣はないはずです。

 

そこには違いしかないのです。

 

ゴールが良くて、今の自分が悪いと決めつけるのは、多少短絡的な思考ではないでしょうか。

 

 

 

もちろん、だから我慢して今のままで居続けなさいなんて言うつもりは毛頭ありません。

 

あなたがそこをゴールに設定するのは、そこがまぶしく見えるからでしょう。

 

だから、おおいにゴールを目指して進めばいいと思います。

 

 

 

あなたがどちらを選びたいか。

 

それだけの問題なのです。

 

だから、今のあなたまで否定する必要はどこにもないのです。

 

今のあなたを否定しなくても、ゴールは逃げてはいきません。

 

 

 

まだあなたの決心ははじまったばかりです。

 

今こそ「忍耐するとき」なのではないでしょうか。