本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

自分の中の「やな奴」と共存する

私はかつて、100パーセントの善人を目指していました。

メンタルの不調で苦しんでいたとき、自分の考え方に問題があると考え、それを改造しようとしていたのです。

そこで参考にした心理読み物の文章から、著者であるカウンセラーやセラピストが聖人君子に思え、自分もそのようにならなければならないと思ったものでした。

人を嫌ってはならない。
不平・不満を言ってはならない。
ポジティブに考えなければならない。

たしかに聖人君子の真似事は私を不要なトラブルからは避けさせてくれたかもしれません。

しかしそれ以上に窮屈で苦痛でした。

自分の怒りなどのネガティブな感情を押し殺しまくっていました。

また、そんな真似事をしている自分が本心を偽っているようにも感じました。

そしてときおり、鬱積した怒りが爆発し、周囲をドン引きさせていました(笑)。

私は2つのことを根本から自分に問いかけました。

本当にこの著者たちは聖人君子なのか?

心理のことを研究し、たしかに専門知識は豊富でしょう。

だから健全な考え方がどういうものかも知っているでしょう。

また、自分のメソッドを実践もしているでしょうから、精神も安定しているかもしれません。

しかし、どんなに説得力がある文章だろうと、優しい文章だろうと、それらだけで著者が聖人君子であるという保証はどこにもないのです。

著作の中では見受けられない「やな奴」な一面があるかもしれません。

仮にやな奴な一面があったとしても、わざわざ自らの著作の中でそんなことを書く必要はありませんから。

(決してディスりたいわけではありません。)

つまり、著者は必ずしも聖人君子であるとは限らないということです。

また、私は本当に聖人君子になる必要があるのか?と自分に問いかけてみます。

たしかに人格が高潔であるに越したことはないでしょう。

しかし、そうでないと人とコミュニケーションが取れないということはないはずです。

ましてや、そうでないと生きられないなんてことはありません。

人は誰でも大なり小なり、善悪両方の要素を持ち合わせているのではないでしょうか。

100パーセント善の人も100パーセント悪の人も、まずいないと思うのです。

問題は心の中に悪が存在することではなく、それに心が支配されてしまうことではないでしょうか。

だから、私たちは聖人君子である必要はないのです。

それを目指す必要もないのではないでしょうか。

むしろ、やな奴の要素があって何が悪いのでしょう。

それをむりやり追い出そうとするから、悪心はますます強大になり、あなたを支配しようとするのではないでしょうか。

自分の心の中に、やな奴の居場所を作ってあげてください。

そうすればきっと、あなたの中のやな奴は、必要なときだけマイルドな自己表現をするはずです。