ただ「生きるため」に生きる
私はかつて、何かを「得るため」に生きてきた。
何かを得た先にゴールのようなものがあり、そこにたどりつけば楽園のような場所がある。
そう信じていた。
しかし、得ようとして努力をすればするほど、満たされなかった。
たしかにその過程で得たものはたくさんあった。
実際、高学歴も安定した職も得た。
にもかかわらず、やはり満たされなかった。
常に生きづらかった。
得ようとする心の裏側には「足りない」という心が存在している。
だから、得ようとすればするほど、「足りない」に焦点が当たるのだろう。
そのため、どれだけ得ても「足りない」のだ。
本当に「足りない」のだろうか。
いったい何が「足りない」のだ?
それは自分の欲望から起こる「これも欲しい、あれも欲しい」に対して足りないのだ。
じゃあ、その欲望が叶ったら満足するか?
いや、きっと満たされないだろう。
なぜなら、その欲望が叶っても、また新たな足りないところ探しが始まるからだ。
その結果、新たな欲望が生じるだろう。
今度はさらに強大なものとなって。
もうこんな不毛なレースはやめないか?
「足りない」といいながら、私はちゃんと生きているじゃないか。
実は「足りない」は自分が比較により作り出した想念だった。
自分を何かと比較しつづけるかぎり、いつまで経っても「足りない」ことは当然だった。
そのような比較に意味を感じなくなったとき、じゅうぶんに「足りている」ことに気が付いた。
私以外の誰が何と言おうと、私が足りていると思えばそれで「足りている」のだ。
だからもう、得たくもないものを「得るため」に、やりたくもないレースに参加するような生き方はやめることを決意した。
そして、ただ、「生きるため」に生きることにした。
何かを「得る」ことではなく、「存在している」ことに意識を向けることにした。
人の役に立っているかどうかとか、社会に貢献できるかどうかとか、そんなことは二の次、三の次でいい。
ただ、生きる。
貢献しようと気張らなくたって、生きていれば自然と、誰かの・何かの役には立っているだろうから。
しかし、せっかく生きるなら、なるべく心地よく生きる。
そして、たった一度きりの人生なら、本心が望むように生きる。
私はそう誓った。