しんどさは人それぞれ
あなたは自分がしんどいとき、そのしんどさに疑いや後ろめたさを感じることはないでしょうか。
たとえば、職場で同僚が忙しく仕事をしているときに、疲れやストレスでしんどくなってきた。
そんな中でも職場の同僚たちは、特に疲れなどを訴えずに、てきぱきと仕事をしています。
そんなとき、自分のしんどさは単なる妄想なのではないだろうかと、疑念が湧いてくるかもしれません。
もしくは、みんなしんどい中を我慢して一生懸命仕事をしているのに、自分だけがしんどいと思うなんて、甘えではないだろうかと自分を責めるかもしれません。
そして、もっと自分も頑張らなきゃいけない、と自分に鞭を打ってむやみに努力するかもしれません。
僕はあなたにはっきりと言うでしょう。
あなたは自分のしんどさに自責の念を感じる必要はありません。
下の記事でもお伝えしているように、「感じ方」は千差万別なのです。
つまり、同じ刺激に対する不快感は、人によって感じる強さが違って当然なのです。
もしかしたら、同僚は我慢しているのではなく、本当にしんどくないのかもしれません。
そして、既に我が身に起こった感覚(ここでは疲労感)は、コントロールをすることはできないのです。
考え方や根性論で多少感じないふりをすることはできるかもしれませんが、根本からの不快感を消し去ることはできないのです。
だから、自分のしんどさと人のしんどさを比べる意味はまったくないのだと僕は思っています。
もしかしたら、あなたはかつて、自分のしんどさを人に訴えたときに、
「お前だけがしんどいわけじゃない。」
「みんなもしんどいのだからお前も我慢しろ。」
などと言われたのかもしれません。
比べる意味のないものを比較し、それによって人を咎める。
果たしてそのような意見に同調する必要が本当にあるでしょうか。
しかし、ひとつ注意していただきたいことがあります。
たしかにあなたのしんどさは何も悪いことではないと僕は思います。
ですが、それとは関わりなく、周囲の人たちはあなたのそのしんどさを理解できないかもしれません。
なぜ理解してくれないのだと、あなたは不満を感じるかもしれません。
残念ながら、好むと好まざるとに関わらず、これは致し方ないことなのです。
そして大抵の場合、誰にも悪意のないことなのです。
なぜなら、他者にはあなたの「感じ方」が分からないからです。
多少は推測することができたとしても、あなたそのものとして、その刺激を感じることはできないのです。
同様に、あなたもまた、他者の「感じ方」をそのまま体験することはできないのです。
つまり、お互い様ということです。
ならば、あなただけは、あなたのそのしんどさを理解してあげてもいいのかもしれません。
もちろん、抵抗が働いて、自分でもすぐに受け入れることはできないかもしれません。
今はそれでいいのです。
それでも、自分は今しんどいのだという「感じ方」の事実だけでも認めるようにすれば、少しは楽になるのではないでしょうか。