本質で生きるマインドフルネス

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「善悪」や「正しさ」は幻想 【自分の「軸」で生きる。①】

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自分が何に基づいて行動すればいいか、その判断基準に迷うことはよくあるのではないでしょうか。

 

特に、自分の「軸」が分からなくて困っている人にとっては、なおさらでしょう。

 

僕もかつてはそうでした。

 

よく人の意見に振り回されて、なかなか決断ができずに右往左往していたものでした。

 

恐らく多くの方が、「善悪」や「正しさ」を、自分の行動の判断基準としているのではないかと思います。

 

しかし、結論から申し上げると、僕は「善悪」や「正しさ」ではなく、「価値」に基づいて行動することが、自分の「軸」を大切にする習慣なのではないかと考えています。

 

迷惑=「悪」という判断に慣れ切った僕たち

 

最近のマスコミの報道などを見たり、人の会話などに耳を傾けてみると、「迷惑をかけること」に対する批判は激しく、やや神経質だと僕は感じます。

 

やれあの芸能人が不倫をしてけしからん、やれ政府は自分たちの望む政策をすべきだ・・・etc

 

恐らくこの社会は、人に迷惑をかけることを「悪」とみなし、裁く傾向があるのでしょう。

 

だから皆、人に迷惑をかける言動は、厳に慎むべきだという風潮になっています。

 

すべての人は、生きている限り迷惑をかけている。

 

もし、人に迷惑をかけることが「悪」だというなら、すべての人は「悪」だと言えるでしょう。

 

なぜなら、相手が迷惑と感じるかどうかは、相手が決めることだからです。

 

また、人の感じ方は千差万別なので、自分が「正しい」と思ってやっていることでも不快に感じている人はいるでしょう。

 

つまり、いくら僕らが「常識」に基づいて「正しく」行動していようと、相手が必ずしもそれを好ましく受け取るとは限らないのです。

 

また、対象を全生命に拡げるなら、僕たちは生きているだけで、一体どれだけの生命に対して迷惑をかけているでしょうか。

 

食べるために命を奪っているのはもちろんのことですが、ただ歩いているだけでも、植物や虫などを踏み荒らしているかもしれません。

 

こんな例は極端だと思われるかもしれません。

 

相手は人間でないのならいいじゃないかと思われる方もいるかもしれません。

 

しかし、僕は人間界の一部でしか通用しない「常識」の中でのみ「善悪」や「正しさ」を判断し、そこから外れたものを「悪」と断罪する考えや、人間以外の生命はどうでもいいとする考えは、やや狭量ではないかなと感じます。

 

繰り返しになりますが、僕たちは生きているだけで、その気はなくても、誰かに・何かに、なんらかの迷惑をかけているものです。

 

どんな聖人君子であってもです。

 

だから、他者もまた、大なり小なりこちらに迷惑をかけてしまうということも、致し方がないのだということです。

 

「お互い様」という言葉の真意は、まさにここから来ていると僕は解しています。

 

とはいえ、ある程度の配慮は必要

 

もちろん、だからといって、人の迷惑を省みる必要などないと言いたいのではありません。

 

人と協調したいのなら、他者に対する配慮は当然、ある程度必要でしょう。

 

アドラー心理学でも、相手が不快だと感じることを知っていて、わざと迷惑をかけることを、「不適切な行動」としています。

 

「不適切な行動」は、人と信頼関係を築くうえで障壁となりますので、慎んだ方がいいでしょう。

 

しかし、どんなに僕たちが気を付けていても、「誰にも迷惑をかけない」ことなど不可能だということも、知っておいていいのかもしれません。

 

だから、迷惑をかけることに対して過剰に恐れて必要以上に行動を自粛したり、悪意なく他者に迷惑をかけた人に対して、罪人よろしく激しく非難することは、ナンセンスだと思うのです。

 

「善悪」や「正しさ」は幻想

 

たとえばあなたが、今の仕事は収入は十分だが、自分には合わないと感じるので、転職したいと考えているとします。

 

しかし、妻は子供の養育費のことを不安視し、「リスクを冒して転職などとんでもない。今の仕事を続けるべきだ。」と、転職に反対します。

 

つまり、妻の立場としては、現職の継続を「善」であり、「正しいこと」と捉えているのです。

 

もし「善悪」や「正しさ」で判断するとしたら、あなたは確信を持ってこれに対する答えを出せるでしょうか。

 

妻に対して、「俺は転職が正しいと思う。」と堂々と言えるでしょうか。

 

※言える人は、これ以上この記事を読む必要はありません(笑)

 

「善悪」や「正しさ」は、移ろいやすいものなのです。

 

僕は、究極的にはそれらは幻想だと思っています。

 

それらの幻想を自分の行動の拠り所とすると、ますます自分の「軸」がぼやけてしまうかもしれません。

 

また、この例のように、他者の「軸」に左右される可能性もあります。

 

では、「善悪」や「正しさ」に代わって、何を判断基準とすればいいのでしょうか。

 

ここから、僕が始めのほうに言及した「価値」に基づく行動について、説明したいと思います。

 

以下、次回にて・・・

 

(続く)