スピリチュアルなどで、「使命」という言葉を耳にするかと思います。
これまで自分の人生に生きがいを感じられなかった人なら、この言葉を重く受け止めるかもしれません。
どこかに生前から約束された「天職」のようなものがあるのではないか。
それによって他者に貢献することで、このつまらない人生から脱することができるのではないか。
だから、早く「使命」を見つけなければならない。
そう焦ってしまうかもしれません。
僕もそう思っていた時期があったので、よくわかります。
たしかにそのような「使命」が見つかれば、充実した人生が送れそうな気がしますよね。
実際に「天職」と呼べるような職に就いて、幸せそうに日々を過ごしている人を目にしたことがあるかもしれません。
これまでの人生をつまらないと感じていた人であれば、「使命」に憧れを抱くのは、ごく自然な気持ちであると僕は思います。
しかし僕はあなたに、焦らなくても大丈夫だとお伝えしたいと思います。
究極的には、「使命」を見つけようと努力しなくてもいいと思っています。
今、「できること」を淡々とやり続ける姿勢が、おのずと「使命」に結びついている。
僕はそう思っています。
今回は、自然界の植物を例に取り、このことをご説明したいと思います。
光合成
植物は光合成をします。
それによって、酸素が発生します。
僕たち人間は、その恩恵にあずかり、呼吸をすることができます。
いえ、人間だけではありません。
呼吸を必要とする生命すべてが、それによって生きることができるのです。
誰かのためにやっているのか?
では、植物は「よし、私が皆のために役に立ってやろう。」と意気込んで光合成をしているのでしょうか。
残念ながら、僕には植物に大いなる意志があるのかどうかもわかりませんし、仮にあったとしても、僕にはそれを知るよしもありません。
だからこれは推測なのですが、恐らく個々の植物にそうした意図はないでしょう。
自分のためにやっている
光合成の本来の目的は何でしょうか。
酸素を生成して、皆を生かすことでしょうか。
僕は違うと思います。
個々の植物にとって光合成とは、光エネルギーを利用し、水と二酸化炭素から炭水化物を作り出すことが、その本当の目的ではないでしょうか。
それは自分の「体」を生長させるためであり、ひいては「果実」や「種子」を作り、脈々とその命を引き継いでいくために行っていることなのでしょう。
つまり、植物目線で見ると、自分のために行っていることなのです。
結果的に他の役にも立っている
じゃあそれは自分のためにしかなっていないのでしょうか。
違いますよね。
最初に申し上げたように、副産物として酸素を発生させます。
それは自分たちの呼吸だけでなく、他の生物たちの呼吸にも使われます。
また、植物の「体」「果実」「種子」を、我々人間も含めた動物、鳥、虫などが食すことによって、他の生命の糧ともなっているのです。
自分のためにやっていることが、結果的に他の役にも立っているのです。
ただ淡々と
繰り返しになりますが、植物たちには「これが私たちの使命なのだ。」という力みなどないでしょう。
「私たちは地球を救っているのだ。」と、自分たちの偉業をことさらに顕示もしていないでしょう。
「私たちはもっとすごいこともできるはずだ。」と、無理な成長を試みようともしていないはずです。
ただ、自分たちに適した場所で生息し、淡々と自分たちにできること(光合成)を行っているのです。
これこそが自然体なのではないでしょうか。
自分が今、「できること」を
この姿勢は、僕たち人間も学ぶところがあるように思います。
僕たちの肥大化した思考は、偉大であると同時に、純粋さから遠ざかっているように感じます。
僕も陥りがちなのですが、自分がしていることを「大層なこと」と特別視したくなることがあります。
「使命」とは、自分にしかできないことなのだと、「すごいこと」をやろうと欲することもあるかもしれません。
もしくは、「利他」という言葉に囚われてしまい、主に義務感から、自分を差し置いて他者に奉仕しようとするかもしれません。
もし、本心ではそうすることが重苦しく窮屈なら・・・
僕は生きるということを、美化しなくてもいいのではないかなと思います。
植物のように、
ただ、自分のために、
自分に適した環境で、
自分が今「できること」を淡々とやること。
それで充分ではないかと思います。
それは結果的に、誰かの・何かの役に立っているはずです。
真の他者貢献とは、そういうことではないかと思うのです。