わからないことをわからないままにしておく尊さ
この情報化社会。
僕たちは、何でもわかって当然と思ってしまうことがあるかもしれません。
わからないことを恥じて、わからない自分を責めてしまうかもしれません。
だから、何でも無理に自分にわからせようとするかもしれません。
知らないことに対する罪悪感
インターネットの発達やスマートフォンの普及で、いつでもどこでも気軽に情報が調べられるようになりました。
僕も例外なく、この恩恵にあずかっています。
これはとても偉大な技術革新であると僕も思います。
だから僕たちは、何でも即座に知ろうとするかもしれません。
知らないことに対して、一種の罪悪感のようなものを抱くかもしれません。
知ろうとする態度
ブッダは無知であることを、三毒のひとつの「痴」として、人間が克服したほうがいいものと説いています。
しかしこの「痴」とは、単に知らないことを指すのでしょうか。
僕は違うと解釈します。
知っているか知らないか。
それはものごとの結果としての状態です。
本来は、そのことに価値判断は必要ないと僕は感じています。
大切なことは、現に知っているか知らないかではなく、知ろうとする姿勢ではないでしょうか。
ブッダが「痴」と言ったのは、与えられた「常識」を鵜呑みにし、その背後や外側にある真実を知ろうともしない態度のことではないでしょうか。
その前提として、自分が知らないということを知ることは、とても大切なことだと僕は思います。
知らないことを知らないと認めること。
それは真の賢さの基礎となるのではないでしょうか。
この賢さは、僕たちの生きづらさを軽減する素となりうるでしょう。
知ってからわかるまでは時間が必要
では、僕たちは、知ったことを即座にわかるようになるのでしょうか。
それもまた、違うと思います。
知ったことは、腑に落ちることでようやくわかるようになるのではないでしょうか。
つまり、知ってからわかるまでには、ある程度の熟成の期間を経る必要があるのではないでしょうか。
知ったことをわかるようになるかどうかも、僕たちが自分でコントロールできることではないと、僕は思います。
だから僕たちは、わかろうとしなくていいのです。
知ろうとすれば、それで足りるのです。
また、何でもむやみに知ろうとしなくて構いません。
今のあなたに興味がないことは、知る必要がないことなのかもしれません。
自分にとって必要なことを知ろうとする態度を持っていれば、おのずとわかるときが来る。
それまでは、わからないことはわからないままでいいのです。
そのようにしておくことが、真の忍耐強さであると僕は思います。