これは、悟りというものの一般定義を記したものではない。
そういうものを期待して読むなら、きっとがっかりすることだろう。
僕は悟りの正式な定義は知らないし、どうでもいい。
物質世界と精神世界の両方を懸命に生きてきた者の責務として、その半生から得られた所感を記させていただいた。
また、これは精神世界で陥りがちな罠に対する注意喚起でもあり、出家修行僧の生活を批判したものではないということはご留意いただきたい。
悟りゲーム
聖人君子になることや、常にポジティブでいることが悟りなのだろうか。
神秘的な気分や恍惚に浸り続けることが悟りなのだろうか。
悟りとは、霊的に才能がある「選ばれし者」だけが得られる特別な状態なのだろうか。
どれも違うと僕は思う。
それらを目指すことは悟りゲームだ。
物質世界の達成ゲームが形を変えて、精神世界に現れただけだ。
それは新たな優越感を作り出すだろう。
僕はそのような別人になる努力には加担しない。
悟りという名の自己否定
僕は思う。
悟りを特別視するものではない。
なろうとするものでもない。
究極的には、悟りを目指す時点でそれはもう悟りではない。
悟りに至ってはじめてあなたの人生が始まるのだとすれば、あなたがこれまで苦しみを感じながらも生きてきた時間は一体何だというのだ。
それもあなたの人生の一部ではないのか。
もちろん、そこから目を背けたくなる気持ちもじゅうぶんわかる。
そのような過去を好きにならなくてもいいと思う。
しかし、もし、「そんなものは自分の人生ではない」と否定するなら、自分にとって都合のいい状況だけが自分の人生だとするなら、精一杯生きてきた過去のあなたがあまりにも不憫ではないか。
悟りを求めて今という時間を犠牲にすること。
それは本末転倒だと思うし、そんな悟りは悟りではないと僕は思う。
悟りは愛と不可分だという。
ならば、あなたから今という時間を取り上げようとする、そんな麻薬のような悟りに果たして愛があるだろうか。
では、悟りとは?
自分のことをことさらに美化もしていないし、貶めもしていない。
ただ、自分はこうなのだと認めていること。
そして、自分に言い聞かせることなく、自分はそれでいいのだと体感していること。
もし、悟りというものがあるのなら、そういうことなのだと僕は思う。
都合のいい理想に合わせて自分を歪めるのではなく、今の自分をそのままの自分として徹底的に見つめること。
そこに悟りが「在る」のではないか。
それは、そうなろうと目指すものではなく、そのようにし続けた結果がそうであった、というものではないだろうか。