本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

蜉蝣(かげろう)の亡骸

何日前からだろうか。

 

僕の部屋の窓ガラスの外側に、カゲロウの亡骸が張り付いている。

 

白く透明で、無機質な物体だ。

 

張り付いているというより、まるで魂が身体から突然抜け出し、そのままそこに居るかのようだ。

 

苦しんだような様子も伺えず、死がごく日常的なことであるかのように、そこに佇んでいる。

 

何にも抗おうとしていないように。

 

なぜ僕はこの亡骸がこんなに愛おしいのだろうか。

 

窓から取り除こうという気にならない。

 

これはきっと、感傷的な何かにちがいない。

 

カゲロウは幼虫として、2~3年を水中で過ごすという。

 

おそらくその中で、成虫になれるものはごく一握りだろう。

 

そして、羽化をして成虫になり、自由に飛べるようになったとしても、成虫として生きられるのはわずか一日、いや、実際には数時間らしい。

 

その一生を知っているから、こんなに寂しく愛らしいのだろうか。

 

たしかに儚い命に対する感傷は、大いにあるのだろう。

 

いや、この一生を「儚い」なんて言葉で片づけるのは、僕の傲慢かもしれない。

 

カゲロウにとっては大きなお世話なのかもしれない。

 

君は、僕よりはるかに短い一生を、懸命に生きたんだろう。

 

自分の一生に何も意味付けをせず、運命に疑問も持たず、ただ淡々と、命を燃やし尽くしたんだろう。

 

そしてここで、君は死を受け入れて、魂はどこかに召されたんだろう。

 

僕は人間だから、そんなふうには生きられないだろうな。

 

もちろん、魂が抜け落ちて物質となった彼に、この言葉は届かないにちがいない。

 

この想いが感傷でも傲慢でも、大きなお世話でもかまわない。

 

風雪などで流れ落ちるまでは、いつまでもそこに居させてあげたい。

 

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