逆説的・幸福論
幸福になろうとするとき、僕たちは幸福ではないのかもしれません。
なぜなら、幸福に「成ろう」としているからです。
不幸であること
もし、僕たちがポジティブな気分であることだけが幸福だと思っているのなら、既に僕たちは不幸なのかもしれません。
なぜなら、僕たちは生きているかぎり、ポジティブな気分もネガティブな気分も両方味わうものだからです。
そして、それらはどちらも単なる一状態であり、どちらか片方だけがすべてではないからです。
これのみがすべてだという「迷妄」自体、既に苦しみです。
もし、僕たちが成功し続けないと幸福ではないと考えているなら、既に僕たちは不幸であるに違いありません。
なぜなら、それは実現不可能な条件だからです。
僕たちは生きているかぎり、成功も失敗も両方体験するものだからです。
また、成功も失敗も、そのときの何かを基準にした、結果に対する相対的な価値判断に過ぎないのです。
その状態を切り取って、成功したから幸福、失敗したから不幸だと判断すること自体、不幸なのかもしれません。
もし、僕たちが成長・拡大し続けないと幸福ではないと考えているなら、いずれ僕たちは不幸です。
なぜなら、拡大・成長し続けることが可能という理論自体、嘘であるということは、平家物語が著された時代から、いや、ブッダが生きていた紀元前5世紀から既にわかっていることだからです。
幸福であること
幸福に「成る」ことを手放し、今という時間をそっくりそのまま自覚し続けるとき、僕たちは既に不幸を脱しています。
なぜなら、そこには不幸という概念が存在しないからです。
しかし、徹底的に幸福に「成ろう」ともがいてみることも、人生において尊い時間なのかもしれません。
なぜなら、それによって、幸福に「成ろう」とすることでは決して幸福にならないという、逆説的な真実に気づくかもしれないからです。
幸福への執着は即ち不幸。
そのことを存分に味わったとき、僕たちは人生に対する抵抗を手放しているかもしれません。
そして、真の自分自身として生きるのかもしれません。
そのとき、自分が幸福で「ある」ことに気づくかもしれません。
大丈夫。
焦る必要はありません。
あなたは幸福に「成ろう」としてもしなくても、「生きること」を諦めさえしなければ、行き着く先は幸福なのです。