変えようとしないこと
「これを変えなければ、自分が損をする。」
「人を動かそうとしなければ、自分の地位が脅かされる。」
「威圧しなければ、自分がなめられる。」
そう考えて、自分の思い通りに人やものごとをコントロールしようと画策してきたかもしれません。
僕もそうだったので、気持ちはよくわかります。
理屈では説明のつかない焦燥感。
それに取り込まれ、いてもたってもいられない。
そこに待っていたのは、戦いの日々でした。
「もっと良く」という貪欲
僕たちは子供の頃、大人たちから、もしくは学校で「立派な人間になりなさい」と教わったかもしれません。
また、社会に出てからも、書店には「優秀なビジネスマンになりましょう」と言わんばかりのマニュアル本で溢れているかもしれません。
それらを受けてかどうかはわかりませんが、何者かになろうとすることが「良い生き方だ」と信じてきたかもしれません。
そして、「もっと良くならなければならない」と、もがき続けてきたかもしれません。
しかし、どこまでいってもゴールなどないということを、あなたも薄々感じ始めたかもしれません。
僕たちはもう、そのような人生との関わり方は限界なのかもしれません。
「何も取り合わない」という瞑想
ならば、ものは試しです。
いっそ、もっと良くなろうとすることを、投げ出してみるのもいいかもしれません。
何もせずに目を閉じて、坐してみてもいいのかもしれません。
坐るのさえも億劫なら、横たわってみてもいいのではないでしょうか。
しばしそのまま、「何も取り合わない」というのはどうでしょう。
聞こえてくる音も、ざわざわとした不快感も、自分の心の声さえも、感じるままにして、他人事のように脇に流してしまってはどうでしょう。
そのとき、自分の意志を超えて、自分を責める心の声も聞こえてくるかもしれません。
それも好きにさせたらどうでしょうか。
止めようと頑張っても止まらないことは、これまでの「格闘」でもう充分おわかりのはずです。
それなら、その声への抵抗も手放してしまってはどうでしょうか。
これまで必死に頑張ってきたあなたは思うかもしれません。
「これは怠惰なのではないか?」と。
その気持ちはよくわかります。
その不安もまた、感じるままにしてみてはどうでしょうか。
そのうえで、僕はあなたに言います。
僕はこれを怠惰ではなく、瞑想と呼ぶでしょう。
もしこれが怠惰だというなら、僕は喜んで怠惰を引き受けましょう。
変えようとしなくていい
いずれあなたの瞑想が深まったとき、あなたは気づくかもしれません。
実はものごとを変えようとしなくてもいいのだということを。
いえ、むしろ変えようとしないほうが、結果的に自分にも周りにもプラスに作用するということを知るかもしれません。
しかし、今はまだ「変えようとしなくていい」が信じられないかもしれません。
それもまた、無理もないことです。
僕たちは長い間、「変えなければ」を信仰してきたと思いますので。
ならば、それでいいのではないでしょうか。
その「信じられない」もまた、「変えようとしなくていい」のかもしれません。
不安なまま、心もとないままでも、「変えようとしないこと」を少しずつ実践することで、あなたはいずれ理解するでしょう。
気づき続けていれば、変えようとしなくても、必要なときに変容は訪れるのだということを。
そのときまでは、それをそのままにしておいていいのだということを。
そしてそれが、愛のある態度なのだということを。
それを僕たちは忍耐と呼んでもいいのかもしれません。