戦争や喧嘩など、表立った争いだけが争いではない。
「私は正しい。あなたは間違っている」
「これは優れている。あれは劣っている」
「こんな状態になれば勝ち。あんな状態は負け」
違いに対して価値判断が加わると、日常生活でさえも争いとなることがある。
また、相手となる他者がいなくても、争いとなることもある。
「こんなダメな自分ではいけない。もっと優れた人間にならなくては」
自分自身との戦いである。
「競争に勝つことが幸せへとつながる」
「こうすれば魅力的な人間になれる」
「霊性を高めて悟りを開きましょう」
現代社会にはまだまだ、僕たちを争いに誘う罠に溢れているのかもしれない。
(これらと争うのも争いである。)
争いは新たな争いを生むだろう。
勝った者は負けた者を虐げ、負けた者は勝った者に復讐を企てる。
だから僕たちは、争いから離れることが賢明なのかもしれない。
皆を争いに巻き込みたい人は、きっとこう言うだろう。
「皆戦っている。なのにお前だけ逃げるのか。無責任だ」と。
もちろん僕たちはその言葉で傷つくだろう。
人間だから。
それでも僕は、争いから離れるだろう。
「僕には争いは、新たな争いの種になるだけだと感じる。争いに加わらないことで、自分も苦しまず相手も傷つけず、また、新たな争いの元凶も作らないのなら、それは建設的な行いではないだろうか。ならば、僕にとっては、争いから離れることこそ責任ある行為なのだ」
僕はこれまで生きてきて、強く感じた。
人生を勝ち負けで判断したとき、生きるということはとてつもなくつまらなく、また、苦しくなるということを。
そしてそれは、結果的に自分も周囲も害するということを。
だから僕は、争いから離れるだろう。
たとえ皆が争っていたとしても、それを横目に争いから離れる。
誰かが争うことも止めはしない。
争いを力によって止めようとすることもまた、争いだからだ。