本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

超越とは「どうでもいい」ということ

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マインドフルネスによって自分の心と健全に関わっていく過程を一言で表すなら、それは「思考を超越する」ということです。

 

もしかするとこれは、マインドフルネスだけでなく、様々な心理ワークや、いわゆるスピリチュアルといわれるもののワークに共通したことなのかもしれません。

 

近年の心理学において、「メタ認知」という言葉を聞いたことはおありでしょうか。

 

この「メタ認知」もまた、思考の超越の一種だといえるかもしれません。

 

では、思考の超越とは何でしょうか。

 

非常に高尚な道徳的概念を身につけることでしょうか。

 

もしくは、思考をストップさせようとすることでしょうか。

 

それとも、決してものごとにうろたえない・動じない強靭な心を築き上げることでしょうか。

 

僕はどれもまったく違うと思います。

 

前者は思考を超越しているどころか、思考に依存しているといえるかもしれませんし、後者2つはもはや超人を目指す「悟りゲーム」に興じているといえるかもしれません。

 

もちろんその方法が自分に適していると感じるなら、選択していただいてもいいと思います。

 

しかし、真の自分自身として生きていくことを選ぶのなら、僕はそれらをお勧めしません。

 

「思考の超越」= 真の「どうでもいい」

 

思考の超越とは、語弊を恐れずに言うなら、「どうでもいい」という心境に近いかもしれません。

 

ここで言う「どうでもいい」とは、世間一般で使用される「どうでもいい」とはまるで違います。

 

よく言われる「どうでもいい」とは、思わしくない結果となったものごとを毛嫌いして無関心を装ったり、それに対して復讐的な行動をしようとすることではないでしょうか。

 

例えば、意中の人に振られてしまった。

 

「もうあんな人はどうでもいい」

 

そう考えて、以後は出会っても完全に無視し、目すら合わせようとしない。

 

これは、「どうでもいい」どころか、強い嫌悪の現れではないでしょうか。

 

関心があるという点においては、好意があることと同じではないでしょうか。

 

そう考えるなら、この「どうでもいい」は、まったく「どうでもよくない」といえるのではないでしょうか。

 

真の「どうでもいい」は、本当に「どうでもいい」のです。

 

好き嫌いなどの関心すらも超越しているのです。

 

これは「嫌いになってはいけない」とか、「好きなふりをしなさい」ということとはまったく違います。

 

嫌いなら嫌いでいいのです。

 

「自分はこれが嫌いなのだ」

 

ただそれだけなのです。

 

好きであろうと嫌いであろうと、それすらもどうでもいいのです。

 

心の客観視こそ思考の超越のはじまり

 

しかしここで注意していただきたいことがあります。

 

それは、「思考を超越しよう」と努力する必要はないということです。

 

なぜなら、その「思考を超越しよう」という考えこそが思考だからです。

 

「思考を超越しよう」とむやみに努力をすると、おそらくものごとに対して無関心を装うことになるでしょう。

 

これもまた、ある種の心の抑圧ではないでしょうか。

 

ならば、「思考を超越」するにはどうすればいいのでしょうか。

 

究極的には、何もしないことです。

 

ただ忍耐強く自分の心を観察し続けるのです。

 

するとあなたは少しずつ、思考というものが自分とは別の生き物であると気づくことでしょう。

 

そのときこそ、「思考の超越」のはじまりなのです。