苦手は苦手なままでいい
あなたは「苦手を克服することが美徳」と教わり、それを信じてきたかもしれません。
そこで、「苦手なものなどあってはいけない」と考えて、嫌がる自分に無理に苦手なことをさせ続けたかもしれません。
にもかかわらず、いっこうにその苦手意識が薄れる手ごたえがない。
そんな自分を責め、ますます苦手克服のための苦行を自分に課してきたかもしれません。
もし、そんな悪循環に疲れ果てたのなら、そろそろ僕たちは、「苦手をなくそうとすること」をやめてもいいのかもしれません。
「ムラ」を嫌う日本
時代は変わってきつつあるとはいえ、日本と言う国は「ムラ」があることを嫌う傾向があると僕は感じます。
僕が子どもの頃は、学校教育において苦手な教科があることを諫められたものでした。
教師が生徒の成績を1~5の5段階で評価する(高いほど「良い」とされる)のですが、いくら「5」の科目があっても、「2」以下の科目があると、それを正すよう指導された記憶があります。
「得意な科目を伸ばす」ことではなく、「苦手な科目をなくす」ことに注目しているということでしょう。
また、心理読み物などを読むと、誰とでも親密にすることが「良いこと」であるかのように感じるかもしれません。
だから、「苦手な人などいてはいけない」
そのように解釈をしてしまうかもしれません。
こうした背景があってかどうかは知りませんが、僕たちは苦手意識を持つことそのものに対して、罪悪感を抱きがちなのかもしれません。
苦手克服という名の戦い
そろそろ僕たちは気づいてもいいのかもしれません。
この「苦手をなくそうとする」考えへの妄信が、自分自身との戦いを助長する側面も持っているということを。
苦手克服というと耳障りのいい言葉だと思うかもしれませんが、自分への優しさという面から観ると、果たして本当に手放しで称賛されるものでしょうか。
なぜ苦手が苦手なままであってはいけないのでしょうか。
ゴキブリが苦手で何がいけないのでしょうか。
怒りっぽい人が苦手で何がいけないのでしょうか。
営業の仕事が苦手で何がいけないのでしょうか。
家事が苦手で何がいけないのでしょうか。
対人関係が苦手で何がいけないのでしょうか。
「苦手なものはあってはいけない」
この考えがいかに我々を窮屈にし、場合によっては八方ふさがりにしているのか。
そうした面にも目を向けてもいいのではないでしょうか。
人類全体でみた分担
先ほども申し上げたように、時代は変わりつつあります。
インターネットの発達とともに、人類全体で見た役割分担というものが少しずつ可能になってきています。
(これは非常に大きい話であり、僕だけでなく色々な方がこのことについて説明していますので、ここでは詳細は割愛します。)
苦手なものはそれができる人に任せ、自分は得意なこと、もしくは自分にできることで貢献していく。
本当に少しずつではありますが、そうした生き方が容認されてきていますし、実践している方もいらっしゃいます。
お金は、自分が苦手なことを代わりにやっていただくために使う。
たとえば、家事がどうしても苦手な人は、家事代行サービスに依頼する。
そうした考え方も芽生えてきているように感じます。
もちろん僕は、そうした生き方だけが正解だとは思いません。
しかし、選択肢としてそういう方法もあるということは、知っておいてもいいのかもしれません。
苦手克服と言う名のもとに、自分との戦いに明け暮れる必要はないということです。
苦手を苦手と認める
とはいえ、向上心の高いあなたはこう懸念するかもしれません。
「それなら苦手なものは一生苦手なままではないか」
不思議なもので、「あるがまま」を認めて気づき続けると、それは自然に変容していくものなのです。
だから、苦手なものを苦手であると認めて気づき続けるなら、その苦手意識は真に必要がなくなったときに、少しずつ解消していくはずです。
逆に言うなら、その苦手意識があるうちは、あなたにとってそれは、むしろ心の健康を保つうえで必要なものなのかもしれません。
それを力づくで変えようとするから、苦しみは増幅するのかもしれません。
中には気づき続けても解消されない苦手意識というものも存在するかもしれません。
たしかに苦手なものはないにこしたことはありません。
が、僕たちも人間です。
一生苦手なままのものだって、あってもいいのではないでしょうか。
苦手なものをなくそうとするのではなく、苦手なままでもそれとどう関わっていくか。
それが大切ではないかと僕は思うのです。
(もちろん苦手なものに立ち向かうだけが関わり方ではないということは、重ねてお伝えしたいと思います。)