前回、苦手なものは苦手なままでよく、ただ「自分はこれが苦手だと感じているのだ」と気づき続ければよいと申し上げました。
今回の記事は、その補足説明となるものです。
タイトルに「危険性」とありますが、これはあなたに強迫観念を与えるためのものではありません。
あなたの希望を摘み取り、絶望の淵においやるためのものでもありません。
むしろその逆で、「苦手克服しか道がない」と長年苦しんできた方に、別の楽な方法が選択できるよう、その後押しをさせていただきたい。
あなたを呪縛から解き放つ一助となればと願い、記すものです。
前回記事
苦手意識は努力だけでなくせるようなものではない
「苦手なものはあってはならない」
脅迫的に苦手克服へと駆られる方の多くが、おそらくこの考えに基づいているのではないかと思います。
そこでまず、自分の心にある苦手意識をなくそうと努力するのではないでしょうか。
しかし、克服し難い強い苦手意識に対峙したとき、この努力は苦行となります。
苦手意識とは、無意識に深く根付いた恐怖心からくるものです。
これは少しずつ認めていただきたい非常に残念な真実なのですが、幼い頃の忌まわしい記憶などに基づく強い恐怖心は、意志の力でコントロールできるような代物ではないということです。
それは抑圧して消せるようなものではないでしょう。
(むしろ心の激しい抵抗によって、自分が傷つく可能性が高いでしょう。)
ましてや偽りのポジティブ思考で置き換えられるような生易しいものではないということは、あなたももう充分経験されたのではないでしょうか。
つまり、強い苦手意識は、自分の意志による努力だけで「打ち勝てる」ようなものではない。
僕はそう思っています。
無意識に深く刻まれた傷が癒えるには、時間が必要なのです。
自分を攻撃する危険
もし、「苦手なものはあってはならない」
この考えを妄信したまま、苦手意識をなくそうとすることに挫折したなら、次はどうするでしょうか。
「あってはならない」のですから、苦手なものそのものを排除しようとするのではないでしょうか。
その存在自体を、どうにかしようとするのではないでしょうか。
その苦手なものが、生命体、たとえば「人」だったらどうでしょうか。
悪意ある態度や行為で攻撃し、相手を自分の周囲から追い出そう・消そうとするかもしれません。
その極端な例が、学校や会社でのいじめであったり、究極的には民族的ホロコーストであったりするのではないでしょうか。
しかし、きっとあなたはそんなことはしないでしょう。
なぜなら、この記事を真剣に読む方にとって、苦手とする対象は、おそらく強い恐怖を感じる人だろうからです。
排除などできるはずがありません。
そこで、「逃げる」という選択肢を取りたくなる。
しかし、世間では依然、「逃げてはいけない」という考えが信じられる傾向にある。
八方ふさがりとなった生真面目なあなたは、苦手意識を持つ自分を、そして、そこから逃げたくなる自分を攻撃するでしょう。
こうして苦手な相手に怯え、そんな自分をも責めるという地獄の日々が始まるのです。
僕がこのブログにおいて一貫して、苦手なものから離れることを積極的に容認しているのは、こういう理由からです。
苦手を排除しようと不毛な戦いに興じるくらいなら、たとえ「逃げている」と言われても、離れるほうが自分も相手も害さずに済むからです。
苦手意識の存在を認める
だから僕は、「苦手を克服しよう」と躍起になることはむしろ危険だと感じるのです。
そして、「苦手なものは苦手なままでいい」つまり、苦手なものの存在を認めることを推奨しているのです。
前回の記事でも申しましたが、これは決して、「苦手なものを好きになろう」と努力しようということではありません。
結局それも、苦手であるということを認めていないことと同じではないでしょうか。
そうではなく、自分のなかの苦手意識の存在を認めるのです。
認め、気づき続けた苦手意識。
それはつまり、あなたの心に苦手意識の居場所を作るということ。
これを忍耐強く続けることで、本当に少しずつですが、あなたと苦手意識との間にスペースができるでしょう。
そのときこそ、あなたの「苦手の超越」が始まるのです。
追記
しかし、あなたの強い恐怖に基づく苦手意識は、存在を認めることすら困難かもしれません。
焦る必要はありません。
決して自分に、無理にその存在を認めさせようとしないことです。
今は「その恐怖が受け入れられない」ということを認めればいい。
何もその苦手なものと接している時間だけがあなたの生活のすべてではないはずです。
または、その苦手なものと接触しなくても生活する方法があるかもしれません。
今は、その苦手なものとなるべく触れることなく、自分にできることをやる。
そのうちに少しずつ、苦手意識の存在が許せるようになるでしょう。
あなたのペースでやればいいのです。