「道具」の支配から脱する
思考というものは便利な「道具」です。
ものごとを部分的に切り取ったり体系立てたりして、僕たちが把握する助けとなります。
実際、思考によって我々人類は技術発展などを成し遂げてきました。
しかし、思考に過剰に価値を付与するあまり、我々は思考が「道具」であるということを忘れたかもしれません。
もしくは、思考が「道具」であることを知らなかったかもしれません。
そして「道具」であるはずの自分の思考に、しばしば振り回されることもあるのではないでしょうか。
いつのまにか我々は、思考に自分自身を支配されたのかもしれません。
それは無理もないことだと僕は思います。
なぜなら僕たちは、子供のころからずっと、思考の大切さなどをこんこんと教えられたからです。
思考を万能のものと錯覚しても、何ら不思議ではありません。
現代の病理
道具を「道具」と知らず、それらに支配され、そのことに自覚がないということ。
これは、現代の大きな病理のひとつであると僕は思っています。
たとえばお金。
もうこれは僕が述べる必要もないかと思います。
お金は「道具」の域を超え、我々を完全に支配していますが、そのことに疑問を感じていない方も多くいらっしゃるのではないでしょうか。
それもまた、当然のことだと思います。
なぜなら、資本主義自体がお金を崇拝するシステムだからです。
(だからといって、僕は資本主義を否定するつもりはありません。僕自身、そのシステムから受けているメリットもありますし、何よりシステムはシステムでしかなく、抵抗するようなものではないと思うからです。)
スマートフォンもそう言えるかもしれません。
スマートフォンは、有効に使えば、とても役立つ「道具」です。
その恩恵は、僕もしっかり享受させていただいています。
目の前に友人がいてもそれを差し置いて、スマートフォンの画面越しの誰かとSNSでやり取りをする。
これもまた、「道具」に支配されているのではないでしょうか。
また、冒頭で述べた思考。
その思考によって作り出される言語、情報、知識もまた、現代において多大なる価値を与えられた「道具」なのではないでしょうか。
「言葉ですべてが伝えられる」
「情報に取り残されるな」
「何でも知っていなければならない」
こうした過信や脅迫が蔓延しているのなら、これもやはり「道具」による支配なのかもしれません。
しかし誤解のないようにしていただきたいのは、上記の「道具」たちはすべて、それそのものが害などではなく、適度に関われば我々にとって非常に有益であるということです。
「道具」の支配から脱する
だから、そろそろ僕たちは、「道具」の支配から脱するときがきたのかもしれません。
「道具」の支配を脱するとは、「道具」を否定することではありません。
(むしろ、しっかり使わせていただいていいのではないでしょうか。)
道具を「道具」であると認識することです。
「思考はものごとを把握するための道具なのだ。」
「お金はモノやサービスを購入するための道具なのだ。」
(過剰な貯蓄はお金の本来の目的を逸脱していると僕は思います。)
「スマートフォンは連絡を取ったり情報を調べたりするための道具なのだ。」
「それ以上でもそれ以下でもないのだ。」
そして、「道具」に支配されたとき、つまりそれらに必要以上に依存したときに、そのことに気づくということです。
それらの認識や自覚があるならば、むしろあなたは「道具」と適切に関わることができるでしょう。
そして、真の意味で、人生を豊かにするために「道具」を使う術を知るでしょう。
そのときあなたは、現代にはびこる問題の源のひとつを理解するかもしれません。
問題は「道具」にあるのではなく、我々の「使い方」にあるのだということを。