9月上旬の某日。
朝、空にはうろこ雲が漂っていた。
そして涼しく、肌にここちのいい気温だった。
窓からは乾いた爽やかな風が吹き入る。
「もう秋だなあ」
正午近く、空の様相は変わっていた。
太陽はギラギラと強い光を大量に発していた。
暑い。
北の空には入道雲が、もうもうと立ち上っていた。
「朝は秋を感じたが、昼間は夏そのものだ」
今は夏と秋が移り変わるはざまなのだろうか。
瞑想が深まれば、ものごとには明確な境界などないということがわかる。
季節もそうだ。
本来、ここまでが夏、ここからが秋という絶対的な区切りが存在するわけではない。
人間が思考によって暦という素晴らしい発明品を生み出し、便宜的に季節を区分しているのだ。
真にあるのはあるがままの大自然のみ。
僕たちはそれを、五感(もしくは六感)を通じて感知することができる。
しかし、思考があれこれ口をはさみ、あるがままに対して疑いが生じる。
だから僕たちは、既に感知しているはずのあるがままを、あるがままと気づかずに取り逃がす。
思考を思考と気づき続けること。
これによって、あるがままを体感することができる。
そこには無限の広がりがある。
もしそこに触れることができるなら、この思考が作り出す人間ゲームのからくりにも、気づくことができるかもしれない。
それは人間の根源的な苦しみを大幅に軽減する可能性を秘める。
学問的な知性は必要ではない。
おそらく人間なら誰しも内面奥深くにあるであろう、真の賢さ。
いわゆる叡智と呼ばれるもの。
あれこれ難しいことは脇に置き、評価をくださずただ坐り続けること。
これを何百回、何千回、何万回と忍耐強く繰り返すことで、僕たちはそれらと親密になる。
それは努力して獲得するものではない。
むしろ努力を手放すことで、向こうから近づいてくるのだ。