野心
夢や成功という言葉で飾られてはいても、もしかするとこれもエゴが作り出す野心かもしれない。
その奥底には、
「俺だけは特別でいたい」
「成功することで特権を独占したい」
「人より優位に立って一目置かれたい」
そんな欲が隠れているのかもしれない。
もちろん夢や成功願望のすべてがそうだとは言わない。
また、それが「悪いこと」だとも言わない。
しかし僕はもう、その生き方は選ばない。
しんどいから。
瞑想はエゴの欺瞞を見抜く
「正義のために悪を倒す」
エゴはよく美しい言葉を使い、自分の執着を正当化しようとする。
そして、正当化していることに気づいていない。
瞑想はときに、自分の内面にあるそうした欺瞞を見抜く。
それは自分にとって、「在る」ということさえ認めたくないものなのかもしれない。
だから僕たちは、それを観ることすら恐怖を感じる。
その恐怖に比べれば、それを「無いもの」にしてしまうほうがよほど楽なのかもしれない。
しかし、瞑想には見て見ぬふりはできない。
いずれそれらと向き合うことになるのかもしれない。
もし向き合うこととなったなら、いずれ受け入れることとなるだろう。
受け入れたとき、それを否定しなくても折り合いがつくようになるだろう。
本当の救い
瞑想にはごまかしが効かない。
それはまったく救いがない。
しかしこれを続けることで、あなたは次第に理解する。
この救いがない中にこそ、救いがあるのだということを。
なぜなら、救いを求めることは不自由なことだから。
この世には本当は、自分だけに都合のいい救いなどないという事実。
むしろ求めれば求めるほど、それは起こらないという事実。
それらを徹底的に味わうこと。
そのことにより救いを求めなくなる。
救いを求めないとき。
真に必要なときに、おのずと救いが起こることに気づく。
そのとき僕たちは、あれこれ小細工を弄しなくても大丈夫なのだと体感する。
それが自由につながる。
笑ってしまうぐらいパラドックスな世界だ。