祈り
もし今あなたが何もできそうにないのなら、ただ祈るのもいいのかもしれません。
もちろん、あなたが祈ってもいいと思ったらでけっこうです。
祈ることなどばかばかしいと思考が強く抵抗するのなら、やめておくことです。
そのときは「何もしない」ということも、立派な選択肢のひとつです。
もし祈るのであれば、結果などのイメージをしないことです。
何かがうまくいった姿の想像は不要です。
もちろんあなたが心からそうしたいのであれば、そうしてもかまいません。
しかし、自己否定感が強い場合、なかなかそれはうまくいかないのではないかと思います。
かえってあなたが苦しくなる可能性が高いのではないでしょうか。
精神の働きからみても、それは当然のことです。
何より、そのような見返りを期待した祈りは、既に祈りではないと僕は思っています。
祈りは願望追及のためのアファメーションではないのです。
もちろんそれを否定するものではありませんが、僕はそうしたことはあなたにおすすめはしません。
では、祈りとは何なのか。
ただ淡々と祈るのです。
たとえばあなたが強い不安を抱えて苦しんでいるのなら、
「私の心が安らかでありますように」と心の中で唱えるのです。
もしくは「私はこの不安感を受け入れます」でもいいかもしれません。
言葉はあくまで一例です。
これらがしっくりこないなら、あなたの好きな言葉でもかまいません。
うまく言葉が出てこないなら、言葉は使わなくてもいいでしょう。
ただ目を閉じて、なんとなく祈るだけでもかまいません。
心は込めなくていいのです。
むしろ心を込めようとしないことが、あなたには適しているかもしれません。
結果は関係ありません。
ここでは、ただ祈ることが大切なのです。
祈りは自分のためでもいいですが、ときには他者のために祈ってみるのもいいかもしれません。
誰かのために祈ること。
それは立派な他者貢献です。
実利を伴うものだけが貢献ではないのです。
結果を求めず、ただ何かをやること。
実はこれが、真の意味の貢献なのです。
業績の「大きい・小さい」は関係ありません。
ただやるだけでいいのです。
だから祈った結果、何も変わらなかったとしてもいいのです。
見返りを期待せずに祈っている時点で、あなたは貢献しているのです。
この貢献は、あなたの心を少しずつ浄化していく働きがあります。
忍耐強く続けることで、あなたの心は癒されていくことでしょう。
何度も言いますが、やりたくないと感じるならやらなくても大丈夫です。
祈りだけが貢献ではありません。
結果を求めずにやること。
それさえ満たしていれば、何でもいいのです。
いや、貢献自体しようとしなくて大丈夫です。
なぜなら、あなたが生きていること自体、何かに貢献しているからです。
今は信じられなくてもかまいません。
生きることさえあきらめなければ、いずれそのことがわかる日が来るでしょう。
p.s.
仏教の「慈悲の瞑想」は、自他への祈りのひとつの代表例です。
インターネット上に祈りの言葉がありましたので、リンクを貼らせていただきます。
http://www.minmachi.jp/jihinome.htm
さあ、ものは試しです。
難しいことは脇に置き、ただ機械的に言葉を唱えるだけでいいのです。
なんとなくやってみましょう。