本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

自己表現の場

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母は毎日、時間をかけて料理する。

 

どうやらいいものを作りたいという意欲が強いようだ。

 

そして母自身、そのことを知ってはいるが受け入れきってはいないようだ。

 

よく「今日も料理めんどうくさいなあ」とこぼす。

 

こぼしながらも、やはりじっくり丁寧に食事を作る。

 

完全欲が強いところは、僕の親だなと思う。

 

僕もしっかりその傾向を受け継いでいる。

 

以前は僕も母を気づかって、ときどき代わりに料理を作ったり、手伝ったりしていた。

 

しかし、母は礼は言うものの、なぜかあまりうれしそうに見えなかった。

 

ときには僕の作り方について改善点を指摘したり、「見ていられない」と僕をどかせて具材を切ったりすることもあった。

 

そのたび僕は「せっかくやってあげてるのに」と苦々しい気持ちになったものだった。

 

料理は母の自己表現

 

最近、僕の認識が変わった。

 

料理の時間はきっと、母の自己表現の場なのだ。

 

なんだかんだ言って、母は料理がしたいのだと思う。

 

僕は大学生の頃、県外に下宿していた。

 

夏休みなどの長期休暇で実家に帰るたび、母は毎食、腕をふるって料理してくれたものだった。

 

刺身、揚げ物、煮つけなど、それはもう、美味しいものばかりだった。

 

「めんどうくさい」と言いながら、そこにはただ料理する喜びを感じている様子がうかがえた。

 

そして今も、その本質は変わらない。

 

多少体調が悪くても、僕が「しんどそうだから今日は出来合いのものを買おうか」と提案しても、母はなかなか厨房を譲らない。

 

おおげさな言い方かもしれないが、母は料理を通じて、存分に自分の能力や感性を発揮しているのだろう。

 

だから今は、なるべく母からそれを奪わないように、

 

頼まれてもいないのに手出しをしないように、

 

気をつけている。

 

自己表現は生きる喜び

 

僕にもあなたにも、きっと自己表現の場はある。

 

それは誰かと比べて優れている技能だとか、

 

大きな業績を挙げられるものだとか、

 

生業にして飯が食えるものだとか、

 

そういった話ではない。

 

ささやかであれ、

 

卑近なことであれ、

 

何の役にも立たないように見えることであれ、

 

目的なく、ただやりたいこと

 

結果を求めずに楽しめること

 

理屈抜きで喜びを感じられること

 

きっと、そういったものだろう。

 

それは僕たちに幸福感を与えてくれる。

 

もちろん、やりたければそれを生業にしてもいい。

 

今わからなくてもまったく問題ない

 

しかし、もし今、あなたが「これが自己表現の場だ」というものに出会っていなくても、何も問題はない。

 

焦って探す必要はない。

 

むしろ、探そうとすればするほど、それは逃げていくだろう。

 

生きることさえあきらめなければ、

 

あなたなりに誠実に生きていさえすれば、

 

いずれきっと、出会うことだろう。

 

いや。

 

もしかしたら、

 

すでにあなたは出会っているのかもしれない。

 

そうとは気づかずに、既にやっていることかもしれない。

 

さらに言うなら、

 

あなたが自己表現の場に出会わなかったとしても大丈夫。

 

なぜなら、生きていることただそれだけで、あなたは自己表現しているから。

 

今はわからなかったとしても、いずれあなたもそのことを理解するだろう。

 

p.s

ここでお話しした「自己表現の場」こそ、本当の意味で言う「仕事」だと僕は思っています。

 

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