起きてくることにただ気づいている
僕は瞑想のとき、
何かをイメージしようとしません。
何かを思い出そうとしません。
心の声で何かをアナウンスしたり、
マントラを唱えたりしません。
呼吸をコントロールしようとしません。
呼吸を数えたりしません。
何かを感じようとしたり、
感覚を維持しようとしたりしません。
何かを消そうとしたり、追い出そうとしません。
何かを変えようとしません。
ただそこに佇み、そっと意識を置きます。
そして、起きてくる呼吸、感覚、感情、思考をなるべくそのまま眺め、場合によってはそれらに触れてみます。
また、これらが起きてくることを、なるべく妨げません。
このように、僕が行う瞑想は、起きてくることに身を任せるものです。
きわめて受動的です。
もちろん、このやり方だけが正しいのだと言うつもりはありません。
僕はこの、何の役にも立たないかのように見える何もしない時間を、毎日約15分~20分、設けています。
どんなに忙しくても、これだけは欠かせません。
この瞑想中に起きてほしくない感覚や思考が起こり、不快さのなかでとどまることもあります。
もしくは、不快さに耐えきれず、起きてきたものを押し殺したり、払いのけようとすることもあります。
また、自分に都合が悪いことが起きてこないように身構えて、心身がこわばることもあります。
しかし、それでいいのです。
不快さや、それが耐えきれないという感覚。
それに対する予知。
それらもまた、すべて起きてくることなのです。
あらゆる起きてくることになるべく抵抗せず、ただそれらに気づいていること。
それができたかどうかの結果ではなく、そのような態度でいること。
そしてできなかったと感じたとき、そんな自分を責めようとしないこと。
もしくは、自分を責めている思考にも抵抗しないこと。
それが、瞑想において大切な姿勢だと僕は思うのです。
これを忍耐づよく続けることで、僕は理解しました。
起きてくることをどうにかしようとすること。
実はこれが、苦しみを増幅していたのだということを。
僕たちには、起きてくることを起こらないようにすることはできないのです。
できることは、起きてくることに備えるところまでです。
そして、備えにも限界があります。
すべての危機に備える。
それはどだい無理な話です。
なぜなら、危機とは、僕たちの思考が危険だとみなしているものだからです。
むしろ、備えれば備えるほど、思考は備えるものを増やしていくのかもしれません。
備えようとすればするほど、危機は増すのかもしれません。
ならばもう、備えることはほどほどにしてはいかがでしょうか。
そして、後のことは大自然にお任せしてはいかがでしょうか。
実は怖れたような結果にはならないかもしれません。
「そんなことを言って、もし何かあったらどうするんだ」
あなたはそのように思うかもしれません。
その気持ち、よくわかります。
僕もかつてはそう考えていましたので。
だから僕はあなたに言うでしょう。
起きてから対処を検討するというのはいかがでしょうか。
さあ、難しい理屈は脇に置きましょう。
そして、ただ坐りましょう。