本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

心を開いているということ

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瞑想において、心を開いていることは大切です。

 

瞑想とは観察であると、僕はこのブログで何度か申し上げています。

 

観察とは、ものごとやそれらの関係性を理解するために効果的な注意の払い方です。

 

なぜなら、理解とは、心を開いて観察しているときに起こるものだからです。

 

心を開いているということへの誤解

 

とはいえ、心を開いているということがどういうことなのか、わからないという方も多くいらっしゃることでしょう。

 

心を開いているということは、とかく誤解されがちだと僕は思うのです。

 

といいますのも、現代社会においては、積極性や他者との上手な会話というものが、あまりにもてはやされているように感じるからです。

 

ですから、もしかするとあなたも、

 

ポジティブな心でいようとすることだったり、

 

積極的に誰かとコミュニケーションを取ろうとすることだったり、

 

明るく振る舞おうとすることが心を開いているということだと考えているかもしれません。

 

よくわかります。

 

僕もそう思っていたことがありますので。

 

しかし、瞑想を続けるとあなたもおわかりになるかと思うのですが、

 

それらは心を開いていることとはまた別のことなのです。

 

むしろ、それらの一見ポジティブな姿勢こそ、心を閉ざしているということなのかもしれません。

 

なぜなら、それらはネガティブな感情をことさらに排除しようとする試みであるかもしれないからです。

 

どんなに高尚な目標があっても、何かを排除している思考を自覚していないとき、僕たちの心は開いていないのです。

 

心を開いているということ

 

では、心を開いているとはどういうことなのでしょうか。

 

それは、自分の内面の動きに気づいているということです。

 

そして、それに対して抵抗していないということです。

 

この内面の動きとは、楽しいとか気持ちいいとかいう快なものだけではありません。

 

面倒くさいとか悲しいといった不快なものや、快でも不快でもどちらでもないものも含みます。

 

特に不快さに気づくことはとても大切です。

 

それらはすぐになかったことにされるからです。

 

僕たちは不快さを感じるやいなや、それを押し殺したり、見ないようにするのではないでしょうか。

 

また、そうした癖がしみついているのではないでしょうか。

 

だからまずは、そういった癖を認めることです。

 

不快さを押し殺していることに気づくことによって、自分が不快と感じていることに気づくことができるのではないでしょうか。

 

身近な例

 

ではここで、心を開いているということについて、身近な例を挙げてみましょう。

 

たとえば、あなたの奥さんが、あなたにトイレ掃除を依頼したとします。

 

あなたはトイレ掃除が面倒です。

 

また、あなたはトイレの不潔さやにおいが不快です。

 

だからあなたはトイレ掃除がやりたくありません。

 

しかし、奥さんの依頼に応えないことに対する罪悪感もまた、あなたにとって苦痛です。

 

あなたはトイレ掃除をやりたくないという気持ちと、やらないと奥さんに申し訳ないという気持ちのはざまで立ち往生してしまいます。

 

こうした自分の内面の動きに気づいているとき。

 

そしてこれらの感情を押し殺そうとしたり、不快さをごまかすために別のことをしようとしないとき。

 

あなたは心を開いています。

 

内面に気づいていればじゅうぶん

 

あなたは意外に思ったかもしれません。

 

奥さんの依頼に応えて、喜んでトイレ掃除をすること。

 

それが心を開いていることだと思っていたのではないでしょうか。

 

しかし、瞑想的には、自分の内面に気づいていればじゅうぶんなのです。

 

結果、どのように行動したかは二の次なのです。

 

喜んでトイレ掃除をする。

 

それはたしかに優等生的な回答ではあります。

 

奥さんの依頼に応えたいという気持ちが強いのなら、その気持ちに正直になるのはいいことだと僕は思います。

 

だから、トイレ掃除をするという選択肢は、奥さんとの関係を円滑にするという意味で非常に建設的であるでしょう。

 

しかし、「喜んで」やる必要はないのではないでしょうか。

 

もちろん、喜んでできるものなら、それにこしたことはないでしょう。

 

ですが、あなたはトイレ掃除を不快と感じていることも事実なのです。

 

不快だと感じているあなたの心を、「これは快だ」と偽ろうとすること。

 

それは多大なる労力の浪費ではないでしょうか。

 

そしてその割に、不快さは軽減しなかったのではないでしょうか。

 

いや、それどころか不快さはさらに強化されたのではないでしょうか。

 

それこそが、トイレ掃除が面倒だと感じる主要因なのではないでしょうか。

 

だから、「いやいや」やればいいのです。

 

今はまだ理解できないかもしれませんし、それでいいのですが・・・

 

喜んでやろうといやいややろうと、奥さんの依頼に応じたという意味においては、本質的に変わりはないのです。

 

瞑想とは、道徳的思想ではないのです。

 

自分の内面の動きに気づいたうえでどういう対応を取るのか。

 

それは気づいた後の話であり、自由にすればよいのです。

 

気づき続けていれば、その時々で適切な選択をする機会はおのずと増えていくでしょう。

 

結び・人生はおのずと望む方向へ進む

 

繰り返しになりますが・・・

 

自分の内面の動きに気づいていること。

 

そしてそれに抵抗していないこと。

 

心を開くとはそういうことなのです。

 

もちろんこの抵抗とは、意識的な抵抗を意味しています。

 

潜在意識下で起こる、自分の意志を超えた抵抗のことではありません。

 

それらは自然に起こります。

 

だから大事なことは、それらの抵抗にも気づくこと。

 

そして、抵抗に対して抵抗しないこと。

 

こうした観察を日頃から忍耐強く行うとき。

 

あなたは自分の人生が、おのずと望む方向に進んでいることに気づくでしょう。

 

なぜなら、この観察はあなたに理解を与えているからです。

 

この理解によって、あなたは今ここにある自分にとってのベストを選択し続けているのです。

 

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