ただそっと意識を置く
瞑想において、あなたは集中しようとしなくていいのです。
呼吸などの対象に注意を縛り付ける必要はありませんし、そこから注意を離すまいと意識する必要もありません。
おそらくそうした方法は、強い苦痛を生むのではないでしょうか。
無理な方法は、やはり望ましい結果をもたらさないものです。
ただそっと意識を置いてみましょう。
そして注意がそれたら、ただ注意がそれたという事実にのみ気づきましょう。
それでじゅうぶんです。
注意がそれたことを責める必要もなければ、なぜそれたのかと原因を考える必要もありません。
「注意がそれた」と心でアナウンスする必要もありません。
そして、注意が対象から外れたと気づいたときも、その後すぐに注意を対象に戻せなくてかまいません。
注意が外れたと気づくだけでいいのです。
注意散漫でいい
しかし、本当にそれでいいのかと思われた方もいらっしゃるかもしれません。
それでは俺は、この先も注意散漫なままではないかという疑問が湧いたかもしれません。
それは無理もないことです。
「注意散漫であってはならない」
現代において、注意散漫という状態は著しく毛嫌いされているからです。
もし、注意が頻繁にさまようことを注意散漫と呼ぶのなら、あなたは注意散漫でかまいません。
なぜならそれが精神の自然な姿だからです。
あなたも僕も、その意味においてはみんな注意散漫です。
あなたから見てどんなに注意深く見える人も、です。
注意深さとはただ気づいていること
忍耐強く瞑想を繰り返せば、あなたも理解されるでしょう。
注意が外れたと気づいた時点で、おのずと注意は対象へと戻ることに。
これが自然な注意なのです。
強く鋭い注意を特定の対象に注ぐことが、注意深さなのではありません。
ただ気づいていること。
それが真の注意深さなのです。
実は注意散漫であると気づいた時点で、既にあなたは注意散漫ではないのです。
そして、注意散漫であることを認めることで、あなたは集中へといざなわれるのです。
あなたはもうおわかりかもしれません。
注意が外れること、それ自体が問題なのではありません。
注意が外れていることに自覚がないことが、本当の意味の注意散漫なのです。
さあ、集中しようとせず、ただそっと意識を置いてみましょう。
そして、自分の注意がどこに向いているのかに気づいていましょう。