瞑想録・身体に意識を置くということ
身体にそっと意識を置く。
何も感じようとせず、ただ置いてみる。
どこか特定の部位にではなく、全体的にぼんやりと。
すると、なんとなく身体の感覚が現れる。
たいした感動はなく、かすかに身体を感じる程度だった。
すっきりするわけでもない。
相変わらず僕の心はさまよい続けているし、依然として原因不明の倦怠感や焦燥感もある。
「まあこんなものか」
不思議だ。
いつもならこのままがっかりしてやめていたかもしれない。
それでもこれを続けている自分がいた。
僕はこの何の役に立つのかもよくわからない作業を、特に効果を期待することもなく、とりあえず毎日行っていた。
この先には何かがあるかもしれない。
そう感じさせるものが、たしかに瞑想にはあったからだ。
はじめはかすかだった身体の感覚は、日を重ねるごとに少しずつ明確さを増していった。
感じようとしないことで、身体を感じることができる。
快・不快にかかわらず、たくさんの感覚が浮かび、そして消えていく。
「そうか、普段は無視していたが、身体には無数の感覚があるんだ」
そのことに気づいていった。
これを始めてどれぐらい経ったころだろう。
たしか数か月だったか。
自分の意識に驚くことが起こった。
存在への気づきである。
自分の内面には、いまだに荒れ狂う思考や渦巻く感情がある。
それはたいして変わらない。
しかし、心が乱れていたとしても、自分の身体は今ここに、たしかにあり続けている。
今気づいたが、ずっと前からそうだった。
いや。
生まれたときからずっとそうだったんだ。
この身体は常に、僕とともにあった。
そして、ただ身体に意識を置くことで、内面を飛び交うこの不快な思考を超えて、自分の存在とつながることができる。
存在。
それは思考や感情に汚されていないもの。
いわばそれらを超越したもの。
そして、たしかにここにあるもの。
そのことを思考をとおしてではなく、感じ方によって理解したのだった。
この気づきは僕に変容をもたらした。
それまでは、いわゆる自分の否定的な思考パターンを変えさせなければならないと、自分の思考と戦っていた。
そして、その格闘に心底うんざりしていた。
僕の敵意は、知ったふうなアドバイスをするカウンセラーやセラピストだけでなく、これみよがしに前向きな言葉を使いたがる人々にも向けられた。
なぜなら、そうした人たちが自分をこの果てしなく不毛な戦いに駆り立てているように感じていたからだ。
そして、そのように恨みがましい自分の心も受け入れられないでいた。
しかし、もうその必要はないんだ。
心を変えようとしなくても、ただ注意を向けるだけで、思考を超える存在に触れることができるんだから。
そしてそれは、いつでもどこでも可能なのだから。
瞑想は魔法ではない。
目に見えた即効性など、もちろんない。
しかし僕は、このシンプルで奥が深い営みを続けることで、自分の心と戦うことなく、憎しみに満ちた精神から解放されていった。
だから僕は、今日も身体に意識を置く。
日々の暮らしのなかだけでなく、旅行中も、いつでもどこでも。
意識を置くこと。
それは気にかけるということ。
気にかけることは、愛にほかならない。
身体に意識を置くということは、このうえない身体への愛である。