モノが少ない簡素な部屋では、のびのびと動くことができる。
なぜだろうか。
それは空間によるのではないだろうか。
空間では動線が確保される。
空間では視界も開ける。
このように、空間とは解放感をもたらす。
解放感があるとき、自由がある。
簡素であるということは、自由があるということ。
心もそれと似たようなもの。
簡素な心もまた、自由をもたらす。
心が簡素とは、どういうことか。
それは思考にとらわれていないということではないだろうか。
思考とは、いわば心のなかの障害物。
ちょうど部屋にあるモノのよう。
部屋にモノが多いとのびのびと動けない。
身体の動きに制約が出る。
モノにぶつかる。
ときにはけつまずく。
視界も遮られる。
思考もそれと同じようなもの。
心に思考があふれているとき。
精神の動きは限られる。
凝り固まった思考は、精神を硬直させることもある。
混雑した思考は、心という空を曇らせる。
モノが多いと便利だと考えられているように、
思考も多いほどいいと思うかもしれない。
ハイテクが便利だと考えられているように、
思考も複雑なほど高等だと思うかもしれない。
本当だろうか。
便利という点では、たしかにそういう一面はあるだろう。
豊富な記憶からそのときに必要な情報を取り出して、
問題に対処できるかもしれない。
高度なシステムは、難しい計算などの特定のタスクをすばやくこなすかもしれない。
しかし、自由という観点からはどうだろうか。
モノも思考も便利な反面、過ぎると束縛につながるのではないだろうか。
言い換えるなら、便利さは不自由を伴い、
自由は不便さを伴うということ。
便利さを追求すればするほど、不自由になるということ。
にもかかわらず、僕たちはどこまでも便利さを追い求める。
これが人間心理のパラドックス。
そこで、スピリチュアリストは僕たちにこう尋ねるかもしれない。
便利だが不自由な世界、
不便だが自由な世界、
あなたはどちらを選ぶか、と。
僕は答える。
どちらも選ばない。
不便すぎず、また不自由すぎないと感じられるなら、それでじゅうぶん。
だからそのままでじゅうぶん、と。
心が簡素なとき。
求めるということも、選ぶということもない。
本当に心が簡素であるときは、
心が簡素であることさえも求めない。
だから僕たちはただ坐る。
何も求めずに。
何も目指さずに。
そのとき、心は簡素。