本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

優しくなろうとしない

 

「優しくなければならない」

 

あなたはそのように、優しい人間になろうと自己改造に挑んできたかもしれません。

 

しかし、どんなに努力を続けても、自分のなかの優しくない一面がムラムラと顔を出します。

 

「だめだ、優しくなれない」

 

あなたはそのように自分を責めてきたのかもしれません。

 

そしてあなたは、優しくなれないのは自分の性格に問題があるからだと考えて、セラピストなどが書いた優しくなるためのマニュアルを実践します。

 

そこには、聖人君子とみまがうばかりの優しい語り口の言葉が並んでいます。

 

他者との優等生的な接し方や、常に優しくあるための心がまえなども書かれています。

 

もちろん僕たちは、努力してそれを真似ようとします。

 

しかし、どんなに頑張ってもそのとおりにはできません。

 

本当はそのとおりになどできなくて当然なのですが・・・

 

優しくありたいあなたは、できない自分をさらに責め立てます。

 

なんという苦行でしょうか。

 

僕もそうだったので、あなたの苦悩は痛いほどよくわかります。

 

そろそろあなたは、この努力を見直すときが来たのかもしれません。

 

優しくなければならないのか

 

僕たちは、本当に優しくなければならないのでしょうか。

 

もちろん、優しいことはすばらしいことであると思います。

 

僕も優しい人は好きです。

 

優しいにこしたことはないでしょう。

 

しかし、それは無理をしてなろうとするものでしょうか。

 

根本的にこのことを問い直していただきたいのです。

 

答えを求めずに。

 

すると、僕たちの前にひとつの疑問が降りてくるのです。

 

今、優しくできないのに優しくなろうとすること。

 

それは自己否定ではないか、と。

 

優しくあることに対する過剰な価値づけ

 

あなたは抵抗を感じたかもしれません。

 

「なぜ優しくなろうとする善意に対して、そんな優しくないことを言うのか」

 

そう思ったかもしれません。

 

よくわかります。

 

僕も同じ立場なら、そう思うことでしょう。


もしあなたを不快にさせたなら、申し訳ありません。

 

それでも僕は、伝えずにはいられないのです。

 

なぜかと申しますと、現代社会において、ことさらに好意的に振る舞うことが、行きすぎなくらいにもてはやされているように感じるからです。

 

優しくあることに対して、過剰な価値づけがなされているのではないか。

 

そしてその呪縛が、ときに僕たちを苦しめさえするのではないか。

 

僕はそう思うからです。

 

優しいふりをする

 

では、根本的な部分に目を向けてみましょう。

 

優しさとは、優しくなろうとすることで実現するものなのでしょうか。

 

たしかに僕たちは、優しいふりをすることはできます。

 

もちろん僕も、しょっちゅう優しいふりをしています。

 

仕事中なんて、優しいふりしかしていないといっても過言ではないかもしれません。

 

「ふりをするなんて、嘘をついているようでけしからん」

 

あなたはそう思ったかもしれません。

 

しかし、ちょっと待っていただきたいのです。

 

自分がふりをしているという自覚があるなら、優しいふりをすることはとてもすばらしいことです。

 

今は信じられないかもしれませんが、本当にそうなのです。

 

だから、優しくありたいと強く願うのなら、優しいふりをしてはいかがでしょうか。

 

真の優しさは努力で身につくものではない

 

しかし、私はふりではない真の優しさを身につけたいのだ。

 

そのやり方が知りたい。

 

あなたはそう思ったかもしれません。

 

そこで僕たちは、問うてみるのです。

 

優しさとは、意識的に起こせるものなのか、と。

 

そこで、ひとつの仮説が現れるのです。

 

違うのではないか。

 

優しさとは、意識的に出せるようなものではないのかもしれない、と。

 

なぜなら僕も、意識的努力によって、長い間ずっと優しくなろうとしてきたからです。

 

そして、もう無理だというところまで続けてみて理解しました。

 

努力によって真の優しさを身につけることはできない、と。

 

意図的にできるのは、前述のとおり優しいふりまでです。

 

そして、それもまた建設的なことです。

 

優しさは心に余裕があるときに起こる

 

では、優しさが努力によって身につかないのなら、私たちはどうすればいいのか。

 

真の優しさとは何なのか。

 

戸惑われた方もいらっしゃるかもしれません。

 

優しさとは、自然に起こるものではないでしょうか。

 

いちど自身の内面をじっくりと観察していただきたいのです。

 

どんな場面で自然と優しく振る舞えるのか、を。

 

するとあなたは、ひとつの真実を発見するのです。

 

優しさとは、心に余裕があるときにのみ起こりうるものであるということを。

 

何度も言いますが、それは沸き上がるものであり、出そうと思って出せるものではないのです。

 

余裕があるということ

 

余裕があるときに優しさが起こる。

 

ならば、余裕があるとはどういうことか。

 

どれぐらい余裕があれば優しさは起こるのか。

 

僕たちはそういうことを知りたがるかもしれません。

 

身も蓋もない言い方で恐縮ですが、そこに答えはないでしょう。

 

ここで言う余裕とは、相対的なものではありません。

 

これだけあればいいとか、そういった基準もありません。

 

自分が感じられるかどうか。

 

それだけではないでしょうか。

 

だから、忙しくても余裕を感じられるときはあると思うし、

 

逆に、さして何もなくても余裕なく感じられるときもあるでしょう。

 

自分の内面に余裕があるかどうか。

 

つまるところ、そこに尽きるのではないでしょうか。

 

余裕がない環境を離れる

 

だから、自分なりに工夫を尽くしても、余裕が感じられないような状況がずっと続く、そんな環境に身を置いているとき。

 

もし可能であるならば、その環境を離れるというのもいいかもしれません。

 

「逃げているようで嫌だ」

 

あなたはそう感じたかもしれません。

 

もちろん、それでかまいません。

 

その感じ方を大切にしていただきたいと思います。

 

だから今、そこを離れられないなら、離れようとしないことです。

 

それもまた優しさです。

 

しかし、余裕があるときでいいので、このことも知っていただきたいのです。

 

どうしても耐えられない場所から離れること。

 

そのことであなたに精神的な余裕ができるのなら、あなたは自分にも他者にも優しさを取り戻すことでしょう。

 

ひいてはそれは、自分にとっても周囲にとってもプラスになるのです。

 

だから、耐えられないと強く感じるときは、そこを離れることも有効な手段のひとつです。

 

優しくなくてもいい

 

補足として、優しさというものについて、根本的な問いかけを付け加えましょう。

 

優しくないということは、本当にそれそのものが有害なのでしょうか。

 

どうやらそうではないらしい、ということがわかるのです。

 

まずあなたは、優しくないことが有害であるという理由として、厳格であることはよくないことだという考えを挙げるかもしれません。

 

今はその内容の是非はさておきましょう。

 

仮に厳格であることが望ましくないことだとして、

 

本当に優しくないことは、イコール厳格であるということになるのでしょうか。

 

これはすぐに違うとわかります。

 

なぜなら、「優しくない」のなかには、無数の「優しくもないし、厳しくもない」が存在しているからです。

 

だから、厳格な自分が嫌なら、厳格にさえ振る舞わなければそれでいいのです。

 

優しくなくてもいいのです。

 

優しくなろうとしないこと = 優しさ

 

さあ、優しくなろうとせずに坐りましょう。

 

そして、ただ気づき続けていましょう。

 

それもまた優しさです。

 

大丈夫。

 

あなたは優しくなろうと努力しなくても、既に優しいのです。

 

なぜなら、優しくできない自分を責めるほど、人に優しく接したいと強く願っているからです。

 

そんなあなたが優しくないはずがありません。

 

だから、あなたはそのままでいいのです。

 

そのままのあなたを許容することで、心に余裕が生まれるのです。

 

真の優しさは、そこから始まるのです。

 

それがこの世界です。