本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

瞑想録・生きる意味

 

第1章 生きる意味の探求

 

「僕が生きる意味は何だろうか」

 

この壮大なテーマは、僕たちに中毒症のような魅力を感じさせる。

 

「今世で自分に与えられた使命が、どこかにあるに違いない」

 

「僕はこれが好きだから、これかもしれない。」

 

「あれは苦手だから、あれではないだろう。」

 

僕もまた、そのように探し続ける。

 

あるときふと出会う。

 

「そうか、僕はこれをするために生まれてきたんだ」

 

そして夢中でやってみる。

 

やはりどこかしっくりこない。

 

または大きな壁にぶち当たる。

 

「やっぱりこれでもないらしい」

 

そしてまた別の使命を求めて探し歩く。

 

よく観察すると、この探求はこうした繰り返しであることに気づく。

 

そして、この探求の結末は、決まって失望であることがわかる。

 

なぜなら、これは意図的な探求だからだ。

 

意図的な探求というものは、結果に対して報酬を求める。

 

じゅうぶんな報酬が得られないことに対する不満は、僕たちを新たな探求へと駆り立てる。

 

第2章 探求の終焉

 

そのような探求にむなしさを感じた僕は、探求する気が失せる。

 

乾いた笑いがこみ上げる。

 

そして、ただ坐る。

 

そっと意識を置き、思考を思考と気づき続ける。

 

するとある大きな事実に気づく。

 

生きる意味と称して意図的に探し求めていたあれも、やはり思考であるということを。

 

そして、思考の中身には実体はなく、今ここに存在している身体や心そのものこそが実体であるということを。

 

「これが僕の生きる意味」「これが僕の使命」というような思考が作りあげた自己イメージは、今ここにいる自分の存在そのものの奥深さにはまるで及ばないということを。

 

そのことに気づいた僕は、もはや生きる意味を探していなかった。

 

僕のなかで、その重要性がなくなっていたからだった。

 

そして、探すことをやめた僕は、今ここでできることだけを、なるべく選択をせずにやり続けた。

 

今できることが何もなければ、何もしなかった。

 

仮にほかの人が労せずできることであっても、今の僕にできないことはできないと認め続けた。

 

すると僕にそれが降りてきた。

 

「人生において、夢や目標はなくてもいい」

 

「ただ生きていればいい」

 

そのとき、僕の心はとても軽いことに気づいた。

 

第3章 ただ生きるために生きる

 

僕が生きていることに意味があるのかないのか、僕にはわからない。

 

そして、それでいい。

 

意味は要らない。

 

使命も同じ。

 

あるのかもないのかもわからないし、わからなくていい。

 

僕には生きるうえでの立派な大義名分はもちろん、夢さえも持ち合わせていない。

 

ただ生きている。

 

生きることに目的があるとすれば、ただ生きること、それだけ。

 

そして、それでじゅうぶん。

 

終章 生きる意味は大自然に任せる

 

庭を這うダンゴムシもまた、ただ生きている。

 

僕たちはダンゴムシが生きる意味など、おそらく興味を持たないだろう。

 

もしかすると、何の役にも立たない生物だと侮ることもあるかもしれない。

 

ダンゴムシはただ生きるために、落ち葉や枯草を食べている。

 

しかし全体で見れば、地球上の掃除という偉大な一役を担っている。

 

というのも、ダンゴムシが落ち葉や枯草を細かく砕くことによって、それらは土に還りやすくなるからだ。

 

ダンゴムシがいなかったら、落ち葉や枯草が処理しきれないかもしれない。

 

ダンゴムシは意図してその役目を探し出したわけではないだろう。

 

彼らにとってただ生きることが、全体で見るとその役目だったというだけだろう。

 

自分たちにとって、生きるために必要だったから、そうしていただけだろう。

 

だから僕も、ただ生きることだけに専念している。

 

ただ生きること以外のすべてをあきらめ、ゆだねている。

 

今の自分にできることだけを、できるかぎりにやっている。

 

庭に這うダンゴムシのように。

 

僕の生きる意味や使命などというものは、僕が決めるものではない。

 

あるかないかも含めて、すべて大自然にお任せしていればいい。

 

結局それが、最適の人生になるのだから。

 

僕はそう確信した。

 

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