本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

空虚な詩⑤ 何者でなくてもいい

現代社会では、何者かになろうとするゲームが繰り広げられている。

 

だから僕たちもまた、何者かになろうとする。

 

しかし、袋小路に迷い込む。

 

何者かになろうとすればするほど、自分が何者なのかわからなくなる。

 

そして僕たちは立ち尽くす。

 

そろそろこんなゲームには、別れを告げるか。

 

 

何者にもなれないなら、何者にもならなくていい。

 

いや、むしろ何者にもならないのがいいのかもしれない。

 

僕もまた、何者でもない。

 

それでも健康的に生きている。

 

いちおう職業は、サラリーマン。

 

サラリーマンというカテゴリー内で比較するならば、どうひいき目に見ても、仕事はできない部類に入るだろう。

 

だが、クビになるほどではない。

 

所持している資格といえば、英検3級ぐらい。

 

大学はなかなかにいいところを卒業させていただいたが、社会に出てまったく活かせたためしはない。

 

取り立てて人に誇れる特技もない。

 

生業にしてお金を稼げるような能力もない。

 

ゼネラリストにもスペシャリストにも、サラリーマンにも起業家にも、カウンセラーにもスピリチュアリストにも、農家にもエンジニアにも、教育者にも指導者にも、無職にもホームレスにもなりきれない。

 

優等生にも劣等生にも、善人にも悪人にも、優しくも厳しくもなりきれない。

 

養うべき家族もない。

 

世間の価値観でいえば、半端者と言われても仕方がない。

 

ほかにできることもないので、お金のためだけにサラリーマンをやっている。

 

ただの瞑想好きのおじさんだ。

 

こうした状況に、完全に満足しているといえば嘘になる。

 

しかし、そうした感情もひっくるめて、それでいい。

 

僕は心からそう感じている。

 

なぜなら僕は、何かを掴み取るために生きているのではないから。

 

ただ生きているのだから。

 

もちろん以前は、そうではなかった。

 

何者かになろうともがき苦しんでいた。

 

社会に出てから、取り立てて何もない自分に劣等感の日々。

 

サラリーマンとして冴えない自分。

 

どんなに努力をしても、仕事ができるようにならない。

 

サラリーマン以外の道に活路を見出そうと、自分の特技や適職を探し回っていた。

 

そして新たに何かを始めては、これも違うと乗り換えていた。

 

そんなことを繰り返していた。

 

しかし、どれだけ探してもそんなものは見つからなかった。

 

サラリーマンをやめる勇気もなかった。

 

八方ふさがりだった。

 

疲れ果てた僕は、こうした行いが心から馬鹿馬鹿しくなった。

 

そして、努力を投げ出して、坐り横たわった。

 

ただそっと、意識を置き続けた。

 

するとそれは降りてきた。

 

清々しく穏やかに。

 

「何者にもなれないのなら、何者にもならなくていい」

 

なるほどそうか。

 

そして僕は、何者かになろうとすることをやめた。

 

そして引き続き、職場で働き続けた。

 

「冴えないのなら、冴えないままでいい」

 

「クビにするなら、クビにしてくれていい」

 

「あからさまに存在が迷惑がられるようなら、こちらから去ればいい」

 

活躍することは期待せず、できることだけをやり続けた。

 

たとえ同僚が簡単そうにできていることでも、僕にできないことはできないと認め続けた。

 

取り立てて職場の役に立とうとしなかった。

 

多くは求めなかった。

 

ただ、できるかぎりで同僚や顧客を害さないことだけ注意した。

 

すると、変容は起こった。

 

やってもできない仕事が、僕のもとから自然に去っていった。

 

どうにも相性が合わない人たちが、僕のそばから離れていった。

 

僕の周りには、自分にできる仕事と、自分にもうまくやれる人たちだけが残った。

 

そして僕は、落ち着くところに落ち着いた。

 

そう、それは窓際サラリーマン。

 

なろうとしてなったのではない。

 

自然とそうなった。

 

もしなろうとしていたなら、これもきっとなれなかっただろう。

 

世間的なイメージは決して良くはないだろうが、僕にはベストなポジションだ。

 

むしろ、華々しい職業より断然これがいい。

 

なぜならそうした仕事には、たいてい僕の手に負えない職責が与えられているから。

 

そのほうが僕には耐えられない。

 

もう労働というものに、生きていける分だけの賃金以上のものを望むことはない。

 

社会や人生に、「もっと良く」を求めることはない。

 

耐えられる範囲で生きていければ、僕はそれでじゅうぶん。

 

そうであるなら、僕にとって職業はさして重要ではない。

 

自分にできない仕事でないならば、それでいい。

 

窓際サラリーマンでなくてもいい。

 

生きていけるのなら、無職でもいい。

 

生き方は、型にすぎない。

 

生きることそのものではない。

 

時とともに変わっていいし、生きていけるのなら、究極的には何でもいい。

 

そもそも生き方なんてなくてもいいのかもしれない。

 

過去の自分の無念に報いるため、ひとつだけ言わせていただく。

 

この社会のしくみは、個人の能力というものに過大な価値を与え、それに依存している。

 

僕にはそう見える。

 

「私の能力」

 

過剰に誇示するならば、これもまた自我意識を強化する。

 

だから僕は、それには賛同しない。

 

もう能力や職業に、自分の存在意義を見出そうとはしない。

 

この気づきの後、

 

引き続き僕は、何者にもなろうとしなかった。

 

何かになりたい欲求が起こったら、ただそれを野心と認め続けた。

 

そして、できるかぎりでそれらには取り合わなかった。

 

何も求めずに坐り続けた。

 

忍耐づよく。

 

すると、自分自身の内にじわじわとそれは起こる。

 

何だろう、この不安定ななかの揺るがない安心は。

 

「何者」などという枠にはまらない存在感。

 

言葉では表せない。

 

それは思考を超越していた。

 

自分に存在価値というものがあるのなら、これがまさにそれだ。

 

何者にもなろうとしないことで、真の自分自身に立ち返った。

 

そして、今に至る。

 

僕たちの価値は、何者であるかということにあるのではない。

 

僕たちそのものにある。

 

生命にある。

 

だから僕は、今日も坐る。

 

何も誇らずに。

 

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