空虚な詩は、当たり前を疑う。
「そうでなければならない」
そう信じて努力して、燃え尽きたあなたに。
あるべきものなど何もない。
あってはならないものもない。
本当は何も、変えなくていい。
僕はだいたいやる気がない。
基本、何もやる気がない。
でも、何もやらないわけではない。
必要なことはやる。
やる気がないままやる。
ただやる。
もし「やる気がないなら帰れ」と言われたら、僕は帰るだろう。
だって、やる気がないんだから。
ない袖は振れない。
ご了承願いたい。
「だったらやる気を出せ」
思考はそう要求するかもしれない。
申し訳ない。
その期待には応えられない。
あなたが何とおっしゃろうと、そういったことはもうしない。
やる気を出そうとすること。
そのように、自分の心に何かを起こさせようとすること。
それは、自分との不毛な戦いであるということを、僕はこれまでの人生で完全に理解している。
やる気は、ないときはないし、出るときは出る。
それは僕にコントロールできることではない。
やる気を出させようと強制するなら、きっと心は抵抗するだろう。
やる気を維持させようと画策するなら、きっとそれは去っていくだろう。
そして疲れ果て、結局自分が苦しむだろう。
ひいてはそれは、自分もみんなもマイナスだろう。
だから僕は、決してやる気を出そうとしない。
やる気はなくても取り組める。
むしろ余計なやる気は邪魔ですらある。
やる気があろうとなかろうと、ただやる。
それでもできなければ、やらない。
もしやる気がないと許されないのなら、そのような場所に長居は無用。
当たらず障らずフェイドアウト。
いずれあなたは気づく。
やる気を出そうとしなければ、やる気は起こるときに起こるということを。
さあ、ぼちぼち始めるか。
坐ろうとせず、坐るかな。
気づこうとせず、気づき続ける。
そのとき僕は、やる気がない。
やっぱりだいたいやる気がない。
しかしたまには、やる気がある。
そして僕は、それでいい。
僕にはそれが、ちょうどいい。
なぜならそれが、僕のあるがままだから。