彼は社会に適応するために、あらゆる努力を尽くしてきました。
自らの能力不足を補うために、自己啓発を行ってきました。
苦手だったコミュニケーションを円滑にするために、アサーティブの練習も重ねました。
こうしたいわゆる正攻法が功を奏しなかったので、スピリチュアルな方法も試みました。
それでもやはり、社会に適応できませんでした。
何度トライしても、結局は適応障害に落ち着くのです。
「もう適応できなくていいや」
とうとう彼は、社会に適応することをあきらめました。
自分は社会に適応できないのだと腹をくくったのです。
すると彼の心は、ずいぶんと楽になりました。
それからどれぐらい経った頃でしょうか。
相変わらず彼は、社会的には不全感を感じていました。
しかし、それは起こったのです。
彼は、社会は思考が作り上げた枠組みであるということを、はっきりと観たのです。
そして、その枠組みの外側に、無限の広がりを感じたのです。
それは人間社会さえも包括する、人間の思考には支配できない絶対的なもの。
彼は感じたのです。
「これが大自然か・・・」
・・・私たちは、大自然に包まれている。
この事実の前には、社会に適応できないことなどほんの些細なこと。
そして彼は、理解したのです。
社会が私たちを守るのではない。
大自然によって、私たちは既に守られている。
それは人間だけではない。
あらゆる生命が、そうなのだ。
たとえ社会的には不完全であったとしても、私たちは皆、生命としては完全円満。
何も足りないものなどない。
社会は絶対法などではない。
適応できない私が悪いのでもない。
もちろん、社会が間違っているのでもない。
単に私にとって社会が複雑すぎるので、
私が適応できないだけ。
それ以上でもそれ以下でもない。
この気づきの後も、やはり彼は社会に適応できないままです。
それでも彼は、さして問題だとは感じていません。
なぜなら、社会と言うものは単なる枠組みだと理解しているからです。
そして、その枠組みの外側にも、世界は無限に広がっているからです。
彼はこれを「大自然」と呼びましたが、呼び方なんて何でもいいのです。
いざとなれば、生きていける場所はいくらでもあるのだという理解があれば、それでじゅうぶんなのです。
だから彼は言います。
もしあなたがどんなに努めても社会に適応できないのなら、
適応しようと努力することをやめてもいいのかもしれない。
大層な洞察や気づきなどなくてもいい。
努力をやめるだけでも、ずいぶんと心理的負担は軽減するだろう。
そして覚悟さえあれば、きっとあなたはどこかで生きていけるだろう。
それは社会的には望ましい形ではないかもしれない。
しかし、あなたに適した形であることは間違いないだろう。
もちろんこれは、反社会的な行為を勧めているわけではない。
他者に配慮しなくていいと言っているわけでもない。
そもそも適応しないことと、反社会的であることはまるで違う。
反社会的行為とは、愚行の極みであることを、きっとあなたもおわかりだろう。
そして彼は、今日も坐るのです。
何も努力せずに。