自己受容 ~あるがままの自分を容認する~
あるがままの自分で生きるにあたって、自己受容は必要な姿勢です。
では、自己受容とは何でしょうか。
どうか言葉の意味を解釈しようとせず、ただ聴いていただければ幸いです。
言葉の意味は、わからなくてよいのです。
言葉が指し示す先にある、それそのものの体感こそが、本当に大切なことです。
何であれ、今の自分はそれでいい
自己受容とは、自己否定ではないことの全般を指します。
少なくとも私は、そのように理解しています。
昨今、自己肯定感という言葉が重要視されているかと思います。
自己受容とは、これと同じものでしょうか。
観も蓋もない言い方で恐縮ですが・・・
私には何とも言えません。
というのも、自己肯定感という言葉がどのように使われているのか。
それが人や場面によって違うと感じるからです。
もし自己肯定感という言葉が、自分を好きになろうと努力することを指すのなら、
私が述べる自己受容とは、大きく異なります。
自己受容とは、今そのままの自分をできるかぎりで許容する態度です。
誤解を恐れずに言うなら、自己受容においては、自分を好きである必要はないのです。
自分が好きでないのなら、そんな自分さえも容認すること。
それが自己受容です。
ざっくりと体感を言葉にするなら、
「何であれ、今の自分はそれでいいのだ」という感じです。
この「それでいい」は、goodではなくOKです。
そのOKも、消極的なものでかまいません。
「今はまあそれでしょうがないかな」
そのぐらいのニュアンスでじゅうぶんなのです。
今の自分に不本意さがあってもいいのです。
それも含めて「それでいい」のです。
積極的な肯定は不要
さて、決して批判したいわけではないのですが・・・
自己肯定感について、ひとつ注意を述べさせていただきます。
というのも、自己肯定感という言葉にとらわれて、かえって苦しくなるケースをよく見聞きしますので。
「自己肯定」という言葉は、大きな逆説をはらんでいると私には感じます。
肯定という言葉に、積極的な意味合いが見受けられるからです。
積極的なのはいいことじゃないか。
あなたはそう思われたかもしれません。
もちろん私は、積極的であることのそれ自体が悪いのだなどと言うつもりはありません。
しかし自己受容においては、積極的に肯定しようとする姿勢は、有害ですらありえるのです。
なぜなら肯定とは、否定と背中合わせだからです。
もし自らを積極的に肯定しようとするとき、
そして、それがかなわないとき、
私たちの内面にどのようなことが起こるでしょうか。
自らを肯定できないとき、そんな自分を否定してしまうのではないでしょうか。
自分を好きになれないとき、そんな自分を否定してしまうのではないでしょうか。
自責の念にかられるとき、そんな自分を否定してしまうのではないでしょうか。
しかし、自己受容においては、そんな自分も「それでいい」のです。
自分を肯定できない自分であっても、「それでいい」のです。
自分のことが嫌いな自分であっても、「それでいい」のです。
自分を責める自分であっても、「それでいい」のです。
それでいいと感じられなくても、「それでいい」のです。
というより、それで仕方がないのです。
とても残念なことだと思いますが・・・
どんなに私たちが「そうであってはならない」と抵抗しようと、
「今そうであること」は変わらぬ事実なのですから。
もちろん、納得なんてしなくていいのです。
納得できない自分でも、「それでいい」のです。
たとえ納得できなくても、それで仕方がないのだとさえ理解していれば、それで足りるのです。
このように肯定も否定もしない、きわめて中立的で受動的な心持ち。
これが自己受容なのです。
自己受容は変容をもたらす
そして・・・
今は信じられないかもしれませんし、信じなくていいのですが・・・
自己受容は必ずや私たちに、健全な変容をもたらすことでしょう。
なぜなら変容とは、あるがままを認めてはじめて、適切に起こりえるものだからです。
そしてそれは、私たちそれぞれに適した時期に、それぞれに見合った形で現れることでしょう。
だから何であれ、今のあなたはそれでいいのです。
ただ今のあなたをそのまま気づき続けることです。
大丈夫。
意地悪くても、
欲深くても、
怒りに満ちていても、
恐怖にまみれていても、
不安でたまらなくても、
私たちはそのままでいいのです。
そのままの自分を認め続けることで、
私たちは全体にとって望ましい方向に変容していくのです。