「わかりあわなければならない」
私はかつて、わかりあおうと努力していました。
相手のことを理解しよう、
自分のことをわからせようと必死でした。
それは苦行でした。
努力をすればするほど、「人はわかりあえる」という理想と、それとはほど遠い現実との間にギャップを感じ、深く失望していました。
しかし、今は言えます。
わかりあえなくていいのだと。
私があなたを理解できないのと同じように、
あなたもまた、私を理解できなくて当然なのではないでしょうか。
もちろん、理解されたいのは誰しも同じでしょう。
私だって、できればわかってもらいたい。
だから私は、あなたを理解したいと思います。
そしてあなたの話に耳を傾けます。
しかし、私にはやはり理解できない部分があります。
もちろん理解できるにこしたことはないのですが、
現に理解できないのだから仕方がないのです。
そこで私は「理解できないのだ」と認めます。
そして、「仕方がないか」とあきらめます。
今はそれ以上わかろうとせず、わからないままにしておきます。
それにより私は、あなたに対する緊張が少し解けます。
このように、理解できないということを理解することもまた、大切な理解なのではないでしょうか。
なぜならこの世は、理解できないことだらけだからです。
理解できないということを理解することで、
理解できない自分を許容することができるのではないでしょうか。
そしてそれは、理解できない相手への理解にもつながるのではないでしょうか。
理解できない相手と無理に親密にしようとすることや、
理解できない相手をいたずらに攻撃することは、
お互いにとって何のプラスにもなり得ないのだと悟り、
理解できない相手との間で、適切な間合いが取れるのではないでしょうか。
わかりあうということ。
それは美しいことかもしれません。
しかし、完璧にわかりあうということが、本当にできるでしょうか。
人間とは、そんなに賢い生き物でしょうか。
少なくとも、私は違います。
偏見で人を判断し、
他者からの批判を過剰に恐れ、
傷つかないよう他者との接触をなるべく避ける。
そんな愚かな人間です。
そして、愚かなりに、なんとかやりくりして生きています。
聖者と呼ばれるような人はどうかは知りませんが・・・
程度の差こそあれ、だいたい皆そうなのではないでしょうか。
ですから、私たちが完全にわかりあうということは、到底無理なのではないでしょうか。
そして、それでいいのではないでしょうか。
理解できない部分があるのなら、そのことを認め、なるべく害さないこと。
それが、本当の意味でわかりあうということなのではないでしょうか。
だから私は、今日も坐ります。
何もわかろうとせずに。
すると私は、少しだけ自分のことを理解します。
それにともなって私は、ごくごくわずかですが、あのときあなたがとった言動の真意を理解するのです。
そして私は、昨日よりほんのちょっとだけ、あなたとわかりあえたような気になるのです。
まあ、それでじゅうぶんなのではないでしょうか。