「本質」で生きるマインドフルネス

真の自由とは、「本質」のあなたで生きること

「憎む心」はあっていい

もしあなたがどんなに心を整える努力をしても、人や世間を憎んでしまうのなら、一度あなたの中にある「憎む心」を認めてはどうでしょうか。

 

巷の心理読み物などを読むと、さも「憎む心」などまったくない清らかな人間になれるのではないかと期待するかもしれません。

 

もしくは、そんな人間に「ならなければいけない」と思うかもしれません。

 

しかし、実際のところは、そのような人間になろうと実践をしても、やはりちょっとしたことで人を憎んでしまう。

 

もしくは、そんな自分の心を押し殺して余計に苦しくなってしまう。

 

そして、そのように憎んでしまう自分を、心が歪んだダメなやつだとジャッジしてしまう。

 

そんなこともあるのではないでしょうか。

 

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「憎む心」は誰にでもある

 

そもそも「憎む心」があって何がいけないのでしょうか。

 

誤解を恐れずに言えば、誰にだって多少は、「憎む心」があるのではないでしょうか。

 

もちろん僕にもあります。

 

おそらくあなたにとって聖人君子に見えるあの人にだって、ただ表現していないだけで、胸中に少しくらいは「憎む心」があるでしょう。

 

「憎む心」があることと、それに取り込まれることは別問題

 

もしかしたら、あなたは心配するかもしれません。

 

「憎む心」を自分の中に認めてしまったら、それに取り込まれて「悪行」を働いてしまうのではないかと。

 

その心配は、取り越し苦労となるでしょう。

 

「憎む心」があるからといって、あなたが必ずそのとおりに行動するというわけではありません。

 

「人を憎みたくない」と思い、自分の心を律する努力をしてきたあなたなら、なおのこと大丈夫です。

 

「憎む心」があることと、それに取り込まれることは別問題なのです。

 

「憎む心」があっても、それにもとづかない行動を選択することも可能なのです。

 

むしろ、あなたの中にある「憎む心」を根絶やしにしようとするから、「憎む心」はますます我が身を守ろうと増大するのではないでしょうか。

 

「憎む心」の存在を認める

 

だから今は、「憎む心」があることを認めてあげればいいのではないでしょうか。

 

「自分の中に憎む心がある」と、ただ気づいてあげるだけでいいのです。

 

そして、もし可能なら「憎む心」をそのままにしておきましょう。

 

自分の中の「憎む心」を認めることで、あなたはそれと距離が取れるようになるでしょう。

 

少しずつあなたの満たされなかった心は癒されることでしょう。

 

そしてあなたは、「憎む心」を少しずつ手放せるようになるでしょう。

 

「憎む心」を責める心もまた、あっていい

 

とはいえ、今はまだ、「憎む心」を責めてしまうかもしれません。

 

しかし、「憎む心」を責める心もまた、あっていいのです。

 

「憎む心」を責めてしまうのなら、そんな自分も認めればいいのです。

 

それは、簡単なことではないかもしれません。

 

これまでしてきた「憎む心」を追い出す努力とはまた違った苦しみを伴うかもしれません。

 

しかし、こうして認めていった先に、あなたの「本心」が少しずつ姿を現すはずです。

 

「憎む心」が自分の中にあったとしても、「本心」に注意を向けることで、そこに触れることができるのだとあなたは気づくことでしょう。

 

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わからないことをわからないままにしておく尊さ

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この情報化社会。

 

僕たちは、何でもわかって当然と思ってしまうことがあるかもしれません。

 

わからないことを恥じて、わからない自分を責めてしまうかもしれません。

 

だから、何でも無理に自分にわからせようとするかもしれません。

 

知らないことに対する罪悪感

 

インターネットの発達やスマートフォンの普及で、いつでもどこでも気軽に情報が調べられるようになりました。

 

僕も例外なく、この恩恵にあずかっています。

 

これはとても偉大な技術革新であると僕も思います。

 

だから僕たちは、何でも即座に知ろうとするかもしれません。

 

知らないことに対して、一種の罪悪感のようなものを抱くかもしれません。

 

知ろうとする態度

 

ブッダは無知であることを、三毒のひとつの「痴」として、人間が克服したほうがいいものと説いています。

 

しかしこの「痴」とは、単に知らないことを指すのでしょうか。

 

僕は違うと解釈します。

 

知っているか知らないか。

 

それはものごとの結果としての状態です。

 

本来は、そのことに価値判断は必要ないと僕は感じています。

 

大切なことは、現に知っているか知らないかではなく、知ろうとする姿勢ではないでしょうか。

 

ブッダが「痴」と言ったのは、与えられた「常識」を鵜呑みにし、その背後や外側にある真実を知ろうともしない態度のことではないでしょうか。

 

その前提として、自分が知らないということを知ることは、とても大切なことだと僕は思います。

 

知らないことを知らないと認めること。

 

それは真の賢さの基礎となるのではないでしょうか。

 

この賢さは、僕たちの生きづらさを軽減する素となりうるでしょう。

 

知ってからわかるまでは時間が必要

 

では、僕たちは、知ったことを即座にわかるようになるのでしょうか。

 

それもまた、違うと思います。

 

知ったことは、腑に落ちることでようやくわかるようになるのではないでしょうか。

 

つまり、知ってからわかるまでには、ある程度の熟成の期間を経る必要があるのではないでしょうか。

 

知ったことをわかるようになるかどうかも、僕たちが自分でコントロールできることではないと、僕は思います。

 

だから僕たちは、わかろうとしなくていいのです。

 

知ろうとすれば、それで足りるのです。

 

また、何でもむやみに知ろうとしなくて構いません。

 

今のあなたに興味がないことは、知る必要がないことなのかもしれません。

 

自分にとって必要なことを知ろうとする態度を持っていれば、おのずとわかるときが来る。

 

それまでは、わからないことはわからないままでいいのです。

 

そのようにしておくことが、真の忍耐強さであると僕は思います。

 

適所で生きるということ

前回記事の中で、「使命」というものを深刻に考えてしまう人に向けて、植物に学び、自分に適した場所で、自分が今「できること」を淡々としていけばいいという持論を述べました。

 

前回記事

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さて、今回も再び、植物の生き方をヒントに、適所で生きることの大切さをお話ししたいと思います。

 

今いる場所がしっくり来ない。

 

どうしても自分の居場所だと思えないが、そこから離れることもできない。

 

そのように苦しんでいる人もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

もしそこがあなたの「本質」に合っていない場所なら、自分に見合った場所への移動を試みるのも有意義なことではないかと僕は思います。

  

ヤマキリシマ

 

ヤマキリシマという植物をご存じでしょうか。

 

九州の火山帯に群生するツツジの一種です。

 

この野生種は、火山の高所でのみ生息できるのです。

 

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高千穂峰に生息するミヤマキリシマ

 

火山というと、有毒ガスが発生しますし、高木が少ないため強風にさらされる危険性もあります。

 

火山灰質の土は、保水力に難もあります。

 

我々の「常識」で考えると、とても植物の生育には適していない場所に思えるでしょう。

 

にもかかわらず、この植物はなぜ、そのような環境で生きることを選んでいるのでしょうか。

 

競争を避ける

 

これは僕の推測ですが、過酷な生存競争を避けるためでしょう。

 

我々が「常識」で考えるところの、多くの植物にとって適しているとされる土地はどんな場所でしょうか。

 

日当たりがよく、栄養も豊富で、気候も温暖、水量も充分にある。

 

おそらくそんな場所でしょう。

 

そのような場所に身を置けば、当然、他の植物との日光、栄養や水の奪い合いになるでしょう。

 

すると、「厚かましい」植物が生き残りやすいという結果になることは明白です。

 

それらの植物にとっては、過酷な火山という環境は、生きにくい場所でしょう。

 

しかし、ミヤマキリシマにとっては、競争が少ない火山こそが生きやすい場所なのです。

 

他の植物との消耗戦に臨むくらいなら、自然環境が厳しいほうがまだいいと、火山を生きる場所に選んだのでしょう。

 

要するに、自分には何が耐えられて、何が耐えられないのかを知っていたということでしょう。

 

これは逃げでも恥でもなく、賢い生存戦略なのです。

 

自然の摂理である「棲み分け」なのです。

 

自分が咲ける場所に身を置く

 

もし、この推測が適切だとすれば、ミヤマキリシマの生存戦略は、自分が身を置いている場所への適応に困難を感じている人も、学ぶところがあるのではないかと思います。

 

人間はこれまで、努力で色々な偉業を成し遂げました。

 

また、様々な困難を克服してきました。

 

だから、「人間は努力をすれば、どこでも適応できるのだ。」と思うかもしれません。

 

そこから離れるということを逃げと感じ、強い罪悪感を抱くかもしれません。

 

もちろん、与えられた場所で勤めを果たすことは、美しいことであると僕も認めます。

 

しかし、たとえ人間であっても、努力をすれば皆、置かれた場所で生きられるかというと、そうであるとは限らないと僕は思います。

 

僕も、自身の経験からそのことを痛感しました。

 

ヤマキリシマのように、他の人が生きやすい場所が、自分にとっては過酷な環境であるということは、充分あり得ることです。

 

ヤマキリシマのように、他の人にとっては生きにくい環境が、自分にとっての適所であるということも、充分あり得ることです。

 

それはあなたが特別なのではなく、単にあなたがそうであるというだけの話です。

 

ヤマキリシマがそんな場所でしか生きられないからといって、あなたはミヤマキリシマのことを「逃げている」と感じるでしょうか。

 

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ヤマキリシマは、5月~6月に火山の山肌で花を咲かせます。

 

あなたができる限りの努力をしても、今いる場所で咲けないのなら、ミヤマキリシマのように生きてみてはどうでしょうか。

 

あなたも、自分が咲ける場所に身を置いてみてはどうでしょうか。

 

もちろん、皆さん事情は様々ですので、今いる場所から移動することが簡単ではないであろうことは、百も承知で申し上げています。

 

焦る必要はありませんし、煽り立てるつもりも全くありません。

 

そうしないことも立派な選択です。

 

今はまだわからないなら、脇にどけておいても構いません。

 

無理にしようとしなくても、自分の「本質」を知るときが来たら、おのずと答えは出るでしょう。

 

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植物に学ぶ「使命」

スピリチュアルなどで、「使命」という言葉を耳にするかと思います。

 

これまで自分の人生に生きがいを感じられなかった人なら、この言葉を重く受け止めるかもしれません。

 

どこかに生前から約束された「天職」のようなものがあるのではないか。

 

それによって他者に貢献することで、このつまらない人生から脱することができるのではないか。

 

だから、早く「使命」を見つけなければならない。

 

そう焦ってしまうかもしれません。

 

僕もそう思っていた時期があったので、よくわかります。

 

たしかにそのような「使命」が見つかれば、充実した人生が送れそうな気がしますよね。

 

実際に「天職」と呼べるような職に就いて、幸せそうに日々を過ごしている人を目にしたことがあるかもしれません。

 

これまでの人生をつまらないと感じていた人であれば、「使命」に憧れを抱くのは、ごく自然な気持ちであると僕は思います。

 

しかし僕はあなたに、焦らなくても大丈夫だとお伝えしたいと思います。

 

究極的には、「使命」を見つけようと努力しなくてもいいと思っています。

 

今、「できること」を淡々とやり続ける姿勢が、おのずと「使命」に結びついている。

 

僕はそう思っています。

 

今回は、自然界の植物を例に取り、このことをご説明したいと思います。

 

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光合成


植物は光合成をします。

 

それによって、酸素が発生します。

 

僕たち人間は、その恩恵にあずかり、呼吸をすることができます。

 

いえ、人間だけではありません。

 

呼吸を必要とする生命すべてが、それによって生きることができるのです。

 

誰かのためにやっているのか?

 

では、植物は「よし、私が皆のために役に立ってやろう。」と意気込んで光合成をしているのでしょうか。

 

残念ながら、僕には植物に大いなる意志があるのかどうかもわかりませんし、仮にあったとしても、僕にはそれを知るよしもありません。

 

だからこれは推測なのですが、恐らく個々の植物にそうした意図はないでしょう。

 

自分のためにやっている

 

光合成の本来の目的は何でしょうか。

 

酸素を生成して、皆を生かすことでしょうか。

 

僕は違うと思います。

 

個々の植物にとって光合成とは、光エネルギーを利用し、水と二酸化炭素から炭水化物を作り出すことが、その本当の目的ではないでしょうか。

 

それは自分の「体」を生長させるためであり、ひいては「果実」や「種子」を作り、脈々とその命を引き継いでいくために行っていることなのでしょう。

 

つまり、植物目線で見ると、自分のために行っていることなのです。

 

結果的に他の役にも立っている

 

じゃあそれは自分のためにしかなっていないのでしょうか。

 

違いますよね。

 

最初に申し上げたように、副産物として酸素を発生させます。

 

それは自分たちの呼吸だけでなく、他の生物たちの呼吸にも使われます。

 

また、植物の「体」「果実」「種子」を、我々人間も含めた動物、鳥、虫などが食すことによって、他の生命の糧ともなっているのです。

 

自分のためにやっていることが、結果的に他の役にも立っているのです。

 

ただ淡々と

 

繰り返しになりますが、植物たちには「これが私たちの使命なのだ。」という力みなどないでしょう。

 

「私たちは地球を救っているのだ。」と、自分たちの偉業をことさらに顕示もしていないでしょう。

 

「私たちはもっとすごいこともできるはずだ。」と、無理な成長を試みようともしていないはずです。

 

ただ、自分たちに適した場所で生息し、淡々と自分たちにできること(光合成)を行っているのです。

 

これこそが自然体なのではないでしょうか。

 

自分が今、「できること」を

 

この姿勢は、僕たち人間も学ぶところがあるように思います。

 

僕たちの肥大化した思考は、偉大であると同時に、純粋さから遠ざかっているように感じます。

 

僕も陥りがちなのですが、自分がしていることを「大層なこと」と特別視したくなることがあります。

 

「使命」とは、自分にしかできないことなのだと、「すごいこと」をやろうと欲することもあるかもしれません。

 

 もしくは、「利他」という言葉に囚われてしまい、主に義務感から、自分を差し置いて他者に奉仕しようとするかもしれません。

 

もし、本心ではそうすることが重苦しく窮屈なら・・・

 

僕は生きるということを、美化しなくてもいいのではないかなと思います。

 

植物のように、

 

ただ、自分のために、

 

自分に適した環境で、

 

自分が今「できること」を淡々とやること。

 

それで充分ではないかと思います。

 

それは結果的に、誰かの・何かの役に立っているはずです。

 

真の他者貢献とは、そういうことではないかと思うのです。

 

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結果がコントロールできない理由

僕はこのブログで何度か「結果はコントロールできない」と述べてきました。

 

これは努力を否定するものではなく、現代社会で陥りがちな「悪あがき」から距離を置くための知恵としてお伝えしているものです。

 

そして、真に言いたいことは、「結果に無関心になりましょう。」ということではなく、結果をより望ましいものにしたいのなら、行動をコントロールして働きかけるという体感が大切なのだということも、強調しているところです。

 

結果ではなく行動をコントロールする。

 

完璧主義で苦しむ人にとって、この感覚は非常に重要だと僕は感じています。

 

しかし、「結果はコントロールできない」ということが、何となくはわかっても、深い理解には至らないという方もいらっしゃるでしょう。

 

今回は、このことについて説明したいと思います。

 

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過去はコントロールできない

 

僕たちは過去の失敗について悔やむことがあるかと思います。

 

もしくは過去の嫌な記憶を思い出し、悲しくなったり腹立たしくなったりすることもあるでしょう。

 

「今の自分ならあのときこうするのに・・・」

 

「あのときのあいつの言動、許せないよ。」

 

しかし、どんなにそのように思っても、過去の自分の行動はコントロールできません。

 

今の「あいつ」に復讐することはできても、当時の「あいつ」に直接何かをすることはできません。

 

(もちろん、復讐もおすすめしませんが。)

 

「過去は返らない」

 

これはもう、使い古された言葉かもしれませんね。

 

「そんなことは今さら言われなくてもわかってる。」

 

そうお思いの方もいらっしゃるかもしれません。

 

しかし、このことは、「結果がコントロールできない理由」と極めて密接に関係しているのだと僕は感じています。

 

結果はすべて過去のもの

 

表題の言葉を繰り返しますが・・・(笑)

 

結果とは、すべて過去のものなのです。

 

たとえ未来の結果であっても、それは例外ではありません。

 

未来のものなのに過去・・・?

意味がわからない・・・

 

そう思われる方もいらっしゃって当然だと思います。

 

しかし、結果の意味を見れば、そのことがわかります。

 

『結果(けっか)とはある物事を行った後に生じた現象、状況、物象をあらわす言葉』(出典:Wikipedia

 

結果は、物事を行った「後に生じる」のです。

 

つまり、未来のことであっても、自分の行動なり、時の流れなりを経たのちに結果が形成されるのです。

 

ものごとは、結果となった時点ですべて過去のものになるのです。

 

そして、先ほど述べたとおり、過去はコントロールできない。

 

すなわち、結果はコントロールできないということです。

 

勉強を「するかしないか」はコントロールできても、試験に「合格できるかどうか」はコントロールできないのです。

 

本を「読むか読まないか」はコントロールできても、その内容を「理解できるかどうか」はコントロールできないのです。

 

気になる彼女に「アプローチをするかどうか」はコントロールすることはできても、彼女が「どう反応するか」はコントロールできないのです。

 

だから、これらの結果を直接どうにかしようとすることは、コントロールできないものを変えようとしてもがいていることと同じなのです。

 

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現在の自分の行動に注意を向ける

 

もし、結果を変えたいのなら、今の行動をコントロールして、未来の結果に働きかけるしかないのです。

 

ならば、望む結果に近づくために、現在の自分の行動に注意を向ける。

 

※結果さえも望む気がなくなったのなら、もちろん「行動をしない」という選択もあり得るでしょう。

 

そして、結果となった時点で手放す。

 

もちろん、望む結果となったのなら、歓喜に浸ってもいいと思います。

 

残念な結果になったら、思い切り悲しんだり悔しがったりするのもいいと思います。

 

しかしそれももう過去のもの。

 

落ち着いたら、また、今という時間に意識を置く。

 

これが結果への建設的な関わり方ではないでしょうか。

 

「今ここ」の意味【持論】

前回記事で、「キャッチフレーズ」について述べました。

 

「キャッチフレーズ」は魅力的に響く分、よく「独り歩き」をする。

 

だから、もしそれらに振り回されて苦しいなら、その真意がわかるまで、むやみに信じようとすることを保留してはどうかとお伝えしました。

 

前回記事

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さて、マインドフルネスにも、僕が「独り歩き」を懸念している「キャッチフレーズ」があります。

 

それは「今ここ」という言葉です。

 

今回はこの言葉について、僕の意見を述べたいと思います。

 

 

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「今ここ」は行間にエッセンスが詰まっている

 

マインドフルネス関連の情報に限らず、スピリチュアルや心理の分野において、近年、「今ここ」という言葉が多用されているように感じます。

 

「今ここ」を生きましょう。

「今ここ」に集中しましょう。

 

適切に意味を理解していれば、この言葉は生きるうえで、非常に有効な指針になるものと僕は確信しています。

 

しかし、生真面目な人は、この言葉に囚われてしまい、「常に『今ここ』だけに集中し続けなければならないのか。」と感じてしまうかもしれません。

 

完璧主義で苦しむ人であれば、「過去のことや未来のことを考えてはいけないのか。」と思い、過去の思い出に耽ることや未来の計画を立てることさえもためらってしまうかもしれません。

 

そして、「今ここ」の自分の呼吸などに、無理やり自分の意識を縛り付けようとするかもしれません。

 

もしくは、「考えを止めなければならないのか。」と自分の思考を抑圧するかもしれません。

 

マインドフルネスを推奨する立場の僕ですが、マインドフルネスを実践することで、かえってあなたに余計な苦しみを負っていただきたくないので、あえて言いたいと思います。

 

「今ここ」は「キャッチフレーズ」です。

 

それはあなたのハートを掴むために仕立てられたシンプルな便利ワードです。

 

だから、その表面ではなく、行間にこそエッセンスが詰まっているのです。

 

この「キャッチフレーズ」の表面上の意味に囚われて苦しいなら、今は距離を置いてみてはどうでしょうか。

 

真意が腑に落ちるまで、一度この言葉を脇に置きましょう。

 

※それでも僕はこの「キャッチフレーズ」には好感を持っていますので、このブログでも時折使っています。

 

「今ここ」を自覚していればいい

 

「今ここ」とは、決して「今ここ」だけに注意を向け続けていなければならないということではないと僕は思っています。

 

湧き上がる思考を無理に抑えつけて、不自然な集中を作り出そうとすることでもないでしょう。

 

試してみればお分かりだと思いますが、自分の心を力づくで止めようとする試みは、かえって苦痛を増大する結果になるでしょう。

 

そんな苦行、僕はやりたくありません(笑)

 

マインドフルネスとは、自分に対する思いやりです。

 

こうしたやり方は、むしろ優しさから遠ざかっているのではないでしょうか。

 

「今ここ」とは、今自分が注意を向けているものを自覚しようとする態度だと僕は認識しています。

 

「今、自分は思い出に耽っている。」と知っているのであれば、過去の記憶に浸ってもいいのです。

 

「今は予定を立てている。」と気づいているのなら、未来のことに思いを巡らせることに何も問題はありません。

 

心は自分とは別の生き物

 

しかし、心は知らず知らずのうちに彷徨います。

 

自覚がないまま、今していることとは違うことについて考えが起こったり、今注意を向けようと思っていないものに気を取られたりします。

 

そのときは、自分が「そうであること」に気づけばいいのです。

 

そして、ただ気づくだけでもいいのですが、もし可能なら、再び今していることや、今注意を向けたいものにそっと意識を置きなおしてみましょう。

 

このように心が彷徨うことは、あなたが注意散漫だから起こるわけではなく、心の自然な働きです。

 

もちろん僕も、しょっちゅうそうなります(笑)

 

これは僕たちのコントロールを超えているのです。

 

心とは、自分の一部であって、自分ではない別の生き物でもあるのです。

 

だから、そうなる自分を責める必要はまったくないのです。

 

こうした態度を忍耐強く続けていると、自分が「今ここ」ではないどこかに注意を向けている時間がいかに多いかに気づくでしょう。

 

そして、注意はおのずと「今ここ」へと向くようになるでしょう。

 

少しずつ、「今ここ」に意識を置く頻度が増えることでしょう。

 

これが「今ここ」の真意なのだと、僕は解しています。

 

「キャッチフレーズ」と距離を置く

現代社会では様々な「キャッチフレーズ」が溢れているかと思います。

 

ライフスタイルに関しても、「断捨離」や「糖質制限ダイエット」など、ブームと呼べるほど多くの人に影響を与える言葉が存在しています。

 

これらの言葉を生き方や行動の指針として参考にしている方もいらっしゃるのではないかと思います。

 

しかし、生きづらさを抱える人の中には、これらの「キャッチフレーズ」に振り回され、かえって苦しくなってしまったことがあるかもしれません。

 

完璧主義で苦しむ人は、「常にこの言葉を守らなければならない。」と自分の行動を縛り、かえって窮屈になってしまったかもしれません。

 

僕もそうでしたから、よくわかります。

 

もし「キャッチフレーズ」が、あなたが建設的に生きるための指針ではなく、あなたを束縛する重荷になってしまっているのなら、一度これらを根本から疑ってみてはどうでしょうか。

 

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「キャッチフレーズ」の独り歩き

 

「キャッチフレーズ」はものごとの性質を端的に表した言葉なので、とても魅力的に響きます。

 

しかしその分、よく独り歩きをします。

 

「断捨離」を例に取ってみます。

 

この言葉の表面上だけを見て、「とにかくモノを棄てればいいんだ。」と捉えている人は多くいらっしゃるのではないでしょうか。

 

そして、「モノを持たないことは善」という一元的な考えに囚われ、モノを持つことを悪者扱いする。

 

さらにその考えが先鋭化し、モノそのものを敵視してしまう人もいるかもしれません。

 

言葉の本質が重要

 

「キャッチフレーズ」に触れたときは、それらの表面上の意味を安易に鵜呑みにするのではなく、その真意が腑に落ちるまで、信じることを保留してみてはどうでしょうか。

 

「断捨離」も、その言葉の本質は、単なる「棄てることの奨励」ではないはずです。

 

身の回りをシンプルに保つことで、雑多な視覚情報に振り回されることを防いだり、本当に必要なものごとにエネルギーを集中することがその目的だと、僕は解しています。

 

だから、「断捨離」の実践に当たって、今持っている不要なモノを減らすために「棄てる」ことは必要かと思います。

 

しかし、本当に大事なことは、「棄てる」ことよりもむしろ、不要なモノを減らした後ではないでしょうか。

 

つまり、減らした後に、不要なモノをなるべく「買わない・もらわない」態度が重要なのではないでしょうか。

 

そこをはき違えて、「棄てさえすればいいんだ。」と、要らないモノを「買っては捨て、買っては捨て」を繰り返すのなら、モノを粗末にしているのと同じではないかと僕は思います。

 

このように、言葉というのは、その行間にあるニュアンスや、その奥にある本質こそが重要なのだと僕は感じています。

 

日本を代表する心理療法の「森田療法」でも、言葉の表面上の意味を鵜呑みにし、それに囚われてしまうことを「教条主義」と呼び、非建設的であると注意を喚起しています。

 

直感を信じる

 

しかし、そうは言ってもこの複雑な現代社会。

 

じゃあ一体、何を信じればいいの?と戸惑うかもしれません。

 

巷にはこれだけ情報が溢れていますからね。

 

その気持ち、よくわかります。

 

僕は「自分の直感」こそ、信じるに値するものだと感じています。

 

もちろん、魅力的な「キャッチフレーズ」や他者が発した意見も、大いに参考になることもあるでしょう。

 

それらが心からあなたにとって信じられるものなら、とことん信じていいと思います。

 

しかし、もしあなたがそれらの言葉にどこか違和感を覚えているのなら、その違和感を信じてみてはどうでしょうか。

 

もし可能なら、一度立ち止まって、それらの言葉の意味を確認してみてはどうでしょうか。

 

それでも信じられるかどうかわからないときは、その「わからない」を信じていいのではないでしょうか。

 

今はわからないままにしておいていいのではないでしょうか。

 

その言葉の本質を知るまで、むやみに肯定も否定もせず、ただそれらと距離を置いておけばいいのではないでしょうか。

 

いずれそれが信じるに値する言葉かどうか、自然とわかるときが来るでしょう。

 

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実は、マインドフルネスにおいても、独り歩きしているのではないかと僕が懸念している「キャッチフレーズ」が存在します。

 

次回はそれについて、お話ししたいと思います。

 

(続く)

 

 

おまけ・オススメの書籍

 

今回は「断捨離」について触れましたので、片づけに関連したオススメの本を紹介したいと思います。

 

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「感情を整える片づけ

 出版社:アチーブメント出版

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空海密教阿闍梨である、密教風水カウンセラーが著した実用書です。

 

片づけ方・棄て方やインテリアの整え方などが書かれています。

 

密教や風水というと、胡散臭く感じる人もいるかもしれません。

 

しかし、この本ではそれらを合理的に取り入れた説明がなされているように感じました。

 

特に、片づけがもたらす精神的なメリットや、モノが棄てられない心理や欲とどのように折り合いを付けるかについて、非常に秀逸に解説した本だと思います。

 

もちろん、実践に当たって違和感を感じた部分があれば、そこはあなたの直感を優先して、脇に置いていただければいいと思います。

 

もしご興味あれば、ご一読を。