本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

最終話・直さないといけないものは何もない

私は今日もまた、似たようなことを言っている。

 

ここで私が執筆できることは、だいたい書き尽くしたのかもしれない。

 

負け惜しみは、もうここいらでおしまいにしようか。

 

 

本当はただ気づくだけでよかった

 

私は、何も変わってはいなかった。

 

自己啓発によって正されたと思っていた、いい加減さ。

 

スピリチュアルな行によって消し去ったと思っていた、偏見、皮肉っぽさ、警戒心。

 

それらはまだ、私のなかにはっきりとあった。

 

無理に押し殺していただけだった。

 

そしてそれらは、ある一面においては慎重さやユーモア、癒やしでもあった。

 

本当は直さなくていいものだった。

 

本当は、ただ気づき続けるだけでよかった。

 

 

変えようとしないことも慈しみ

 

「すばらしい人間にならなければならない」

 

まるで完璧を目指せとでもいうように、

 

現代では、こうしたスローガンが飛び交っているのかもしれない。

 

私もまた、そのスローガンに従った一人だった。

 

だが、私はよくわかった。

 

そんなことは無理である。

 

どんなに自分を変えようとしても、

 

一足飛びで自分ではない理想的な何かになったりはしない。

 

どんなに神仏の真似事をしても、

 

対人恐怖症の私が、今ここで恐怖に動じない人間になったりはしない。

 

本当に大事なのは、変える・変えないではなく、

 

まずは今の、この臆病な自分をただ認めることだと思う。

 

たとえそれが、自分にとって残念な姿であったとしても。

 

残念だと感じている事実も含めて、私は認め続けるだろう。

 

本当に変わる必要があるのなら、そこから変わるだろうし、

 

変わらなくていいものならば、変えようとしても変わらないだろう。

 

どんなに頑張っても、私は私なりのことしかできないのだろう。

 

そして、それでいいのだと私は思う。

 

だってそれが自分なんだから。

 

むやみに変えようとしないことも、きっと自分への慈しみにちがいない。

 

「気づきはひとりでに私たちが知るべきものを教えてくれる」

 

「何かを起こそうと思わなくていい」

 

「行くべき場所も、するべきこともない」

 

ジョン・カバットジン先生のおっしゃったとおりだった。

 

私の半生は、それを理解する旅だったのかもしれない。

 

 

瞑想の本質の本質

 

ただそれをそのままに観るということ。

 

尽きるところ、瞑想とはそれだけではないだろうか。

 

そこからさまざまな発見がある。

 

だから瞑想は私にとって、オカルトではない。

 

事実の知覚である。

 

これ以上のリアルはないとすら思う。

 

そしてこの知覚こそが、自己理解の過程なのであろう。

 

自己理解なくして、他者の理解はできないと私は思う。

 

だから私は、この先も瞑想は続ける。

 

飽きっぽい私ではあるが、それだけは断言できる。

 

 

謝辞

 

私を自己解放へと導いてくださった、ジョン・カバットジン先生、

 

私に障害者認定への道を拓いてくださった、「西梅田こころとからだのクリニック」の故・西澤弘太郎院長先生、

 

私のあるがままを受け入れてくださった、T校長先生。

 

恩師の皆様には、感謝してもしきれません。

 

そして何よりも、

 

生前はその真意がわからずに、反発ばかりしていた私を、ずっと支え続けてくれていた父、

 

今そのままの私でいいのだと私が理解するまで、ずっと見守っていてくれた母。

 

当たり前のことですが、今の私があるのは、お二人のおかげです。

 

本当にありがとうございます。

 

また、このような珍奇でひねくれたブログにお付き合いくださった読者の皆様。

 

皆様の存在がなければ、5年間も続けられなかったはずです。

 

多大なる謝意を表明いたします。

 

瞑想のことで伝えたいことは、100分の1も書けませんでしたが、

 

私の人間性では、ここまでなのでしょう。

 

無念ですが、瞑想の伝道は、世にいる先生方にお任せします。

 

私は持ち場に戻り、

 

これまで見逃していた、まさに今ここにある美に目を向けつつ、

 

細々と自分の務めを果たします。

 

これをもちまして、当ブログの最後の記事とさせていただきます。

 

皆様の御多幸を願います。

 

どうぞお元気で。

 

 

本質で生きるマインドフルネス 完

 

5年間のご愛顧、ありがとうございました。

 

豆腐メンタルですが何か


私は豆腐メンタルです。

 

対人恐怖がきわめて強く、

 

人の反応が、

 

人の批判が、

 

人の怒りが、

 

怖くて怖くて仕方がありません。

 

人から少し叱られただけで、とても傷つきます。

 

人の機嫌が悪いと、自分が何かしたからにちがいないという考えが湧き、いてもたってもいられない気持ちになります。

 

人の反応を予測して身動きが取れず、思ったことがやれないことも多々あります。

 

豆腐メンタルは変わらなかった

 

以前はそんな自分を変えようと、

 

努力に努力を重ねていました。

 

内観療法、

 

認知行動療法、

 

暴露療法、

 

アドラー心理学、

 

仏教典の実践、

 

ヨーガ、

 

スピリチュアル。

 

対人恐怖を撲滅できるのではないかと期待しつつ、

 

様々な試みをしました。

 

何年やったかわかりません。

 

少なくとも干支が一周りする年月は、

 

全身全霊で取り組みました。

 

しかし、やはり私は豆腐メンタルです。

 

相変わらず、

 

人の反応が、

 

人の批判が、

 

人の怒りが、

 

怖くて怖くて仕方がありません。

 

どうやら私の恐怖心は、何も変わっていなかったようです。

 

残念ですが私は、

 

感謝の念を起こそうとしたり、

 

自分自身に無理に怖いことをさせようとしたり、

 

納得できない理屈を自分にわからせようとしたり、

 

わざとらしい好意的な言葉を濫用したり、

 

やりたくもない善行を自分に強要したりと、

 

恐怖心を必死でごまかしていただけのようです。

 

もちろんこれは、私のやり方が悪かっただけで、あなたは違うでしょう。

 

いずれにせよ、私はあきらめました。

 

「私の豆腐メンタルは、変わらんのだなあ」

 

 

豆腐メンタルを受け入れる

 

人の批判を怖れて予防線を張る自分も、

 

人の反応を予測して行動をためらう自分も、

 

人の機嫌を必要以上にうかがう自分も、

 

どうやらまぎれもなく自分のようです。

 

変わらないのなら、受け入れるよりほかにあるまい。

 

たしかにそれは、とても不自由かもしれません。

 

やりたいことの1割もできない日も多々あります。

 

でも私は、ないものねだりも、もう飽きました。

 

やりたいことの1割もできないことが、私の10割なのかもしれません。

 

それが私にとっての分相応なのかもしれません。

 

必要だからメンタルが豆腐

 

「私は豆腐メンタルです」

 

このように認めることで、

 

私は少しずつ気づくのです。

 

たしかに過剰な面は否めないけれど・・・

 

この豆腐メンタルは、私を守ってくれているのだ、と。

 

日々、やりたいことに情熱を燃やす彼。

 

彼は、自由に発言している。

 

私にはそう見えている。

 

「きっと彼は、私のように強烈な恐怖は感じていないのだろうなあ」

 

そんな彼を見て、以前はうらやましいと思っていた。

 

しかし、彼をよく見てみると・・・

 

自由に発言している彼は、そのぶん激しい批判も浴びている。

 

私にそれが耐えられるか?

 

否。

 

きっとあんなふうに言われたら、

 

私なら半年は寝込むだろう。

 

今ならそんなことは、容易にわかります。

 

だから私には、そんなふうに自由に発言できないマインドが備わっているのです。

 

自分にとっての致命傷を回避するために。

 

そう。

 

私のメンタルが豆腐なのは、私にとって必要なことだったのです。

 

豆腐は豆腐のままでいい

 

このことを理解するとき。

 

私は、豆腐メンタルを変えさせようという気が失せます。

 

そして、自分の内面の動きを、観察し続けます。

 

すると・・・

 

本当にごくごくたまにですが、

 

誤解が解けることがあるのです。

 

「ああ、これはそこまで怖がらなくても大丈夫だったのか」と。

 

次に同様のことが起きたときは、

 

本当にごくごくわずかにですが、

 

耐性ができているのです。

 

そして、やりたいことの2割くらいできている日も、ときおりあることに気づくのです。

 

絹ごし豆腐ぐらいの耐久性だった私のメンタルは、

 

もめん豆腐ぐらいになっているのです。

 

もちろん、豆腐は豆腐ですけど。

 

豆腐が鋼になったりはいたしません。

 

でも、それがいい。

 

いくら快活に過ごしているように映っていても、

 

彼のような批判にさらされる日々は、私はごめんだから。

 

自分にとって都合のいい変化を「進歩」と呼ぶのなら、

 

これが私の適正進歩です。

 

だから私は、今日も認めます。

 

「豆腐メンタルですが何か」

 

 

小さく妥協することもまたすばらしい

 

成功者への羨望

 

私は羨んでいた。

 

ああ、彼らはなんて活き活きと暮らしているのだろうか。

 

仕事も充実しているし、

 

趣味も楽しんでいて、

 

対人関係も円満だ。

 

私には、そう見えていた。

 

それにひきかえ、私はどうだ。

 

仕事もできないし、

 

趣味も中途半端で、

 

対人恐怖もきわめて強い。

 

ああ、彼らのようになりたいなあ。

 

世間で名を上げたいなあ。

 

私は、彼らのようになろうと自己啓発を続けた。

 

どんなに努力をしても、

 

彼らのようにはならなかった。

 

冴えない私のままだった。

 

私はあきらめた。

 

世間で名を上げることは、私には無理だなあ。

 

 

超越者への羨望

 

すると、スピリチュアルリーダーが現れた。

 

彼らは恐怖を超越した聖者のようだった。

 

私には、そう見えていた。

 

私は期待した。

 

彼らのように恐怖を超越すれば、

 

私も自由に生きられるにちがいない。

 

もしくは、物質世界では辛酸をなめ続けたが、

 

精神世界でなら活躍できるかもしれない。

 

私は、行に励んだ。

 

どんなに努力をしても、

 

彼らのようにはならなかった。

 

対人恐怖で身動きが取れない私のままだった。

 

また、プライドが高すぎて、精神世界でも協調できなかった。

 

私はあきらめた。

 

恐怖を超越することも、

 

精神世界で活躍することも、

 

どうやら私には無理のようだなあ。

 

 

私は私にしかなれない

 

誰かのようになるとか、

 

名を上げるとか、

 

活躍するとか。

 

そういうこと自体、もういいや。

 

野心をいたずらに満たそうとした私が愚かだったようだ。

 

よくわかった。

 

うらやんだところで、私は私にしかなれない。

 

私は私にできるようにしかできない。

 

「雁が飛べば、石亀も地団駄」

 

石亀でもいいんじゃない。

 

翼はなくても、硬い甲羅がある。

 

甲羅の中にうずくまり、またはゆっくり歩けばいい。

 

石亀は石亀であることを自覚し、

 

石亀にできることをやっていけばいい。

 

なれもしない雁をうらやみ続け、

 

石亀である自分を悔やみ続けるより、

 

そちらのほうが、私にはよほど建設的だと理解する。

 

小さく妥協する

 

世の中には、羨望を掻き立てるような情報であふれている。

 

大きなことを成し遂げることや、

 

人生を存分に謳歌すること、

 

妥協せずにやりたいようにやることが、

 

すばらしいことだともてはやされているかもしれない。

 

それがすばらしいことかどうか、

 

今の私にはわからない。

 

私に言えた義理ではないが、

 

おのおのの好きでいいと私は思う。

 

しかし、それらがすばらしいことならば、

 

小さく妥協しながら、今できることだけをやることもまた、

 

同じくらいにすばらしいにちがいない。

 

分をわきまえる

 

「私のようになりたいですか」

 

この先、誰が現れてそう言おうと、

 

私はこう答えるだろう。

 

「遠慮しておきます」

 

たしかにあなたはすばらしいが、

 

私はあなたではありません。

 

だからあなたのようにはなれません。

 

不合理でも、

 

納得がいかなくても、

 

輝かしくなくても、

 

私は私の分をわきまえて、

 

今の私にできることだけを、

 

細々とやり続けます。

 

 

注釈1

 

以前はわかりませんでしたが、

 

かつて私が羨んだ人たち。

 

充実した生活を送っているように見える彼らや、

 

恐怖を超越したかのように見える彼らにも、

 

彼らに見合った苦悩がたくさんあるようです。

 

きっと私には、そんなものは背負いきれないでしょう。

 

注釈2

 

誤解のないようにお願いしたいのですが、

 

私は成功したいという望みや、やりたいようにやることを否定しているわけではありません。

 

誰しもそういった欲求は、大なり小なりあると、私は思います。

 

当然私にも、大いにあります。

 

欲求があるのなら、裏腹に恐怖がある。

 

それもまた、まぎれもない事実です。

 

私は、不本意ながらも、この恐怖の影響を強く受けてしまうようです。

 

欲求や恐怖とどのように折り合いをつけるか。

 

それは人それぞれだと、私は思うのです。

 

逃避行の果てに

俺はそろそろ

 

旅をやめるわ

 

 

俺はいつも

 

極端から極端へ

 

サルのように飛び回ってたさ

 

絶対的なイデオロギーを求めて

 

超越者とか

 

隠遁者とか

 

悟りとか

 

真理とか

 

不動心とか

 

そんなことに逃避してきたんだ

 

それはすばらしい時間だったなー

 

ちょっと気持ちよくなったり

 

スゴイ人間になったような気がしたり

 

覚者ごっこに興じたり

 

 

でもよ

 

そんときゃ俺もわかっちゃいなかったけどよ

 

全然地に足がついてなかったわ

 

逃げて逃げて逃げまくって

 

俺はようやくあきらめたんだ

 

あー、逃げられないんだなーって

 

都合のいいユートピアなんてないんだなーって

 

結局さー

 

いずれは現実と折り合いつけねーとしゃーないんだよなー

 

 

あ、誤解すんなよな

 

何も俺は

 

逃げるなとか言いたいわけじゃねーから

 

俺はそーゆーの

 

ホントもういーからよ

 

逃げ続けたことに

 

全然後悔ねーよ俺は

 

そんときゃ俺も

 

それしかできなかったんだからよ

 

これは断言すっけど

 

逃げ続けたことが

 

そんときの俺のベストだったんだからよ

 

 

逃げるのって

 

悪いことのよーに言われっけど

 

ホントにそーか?

 

立ち向かうことばっか称賛されてるみてーだけど

 

それってそんなにいいことか?

 

俺はぜんぜん違うと思うわ

 

両方経験して、俺ァわかったよ

 

逃げることも立ち向かうことも

 

本質的にゃーどっちもいっしょ

 

逃げることが悪いことなら

 

立ち向かうことも同じくらい悪いだろ

 

立ち向かうことがいいことなら

 

逃げることも同じくらいいいんじゃね?

 

だからどっちがいいとか悪いとか

 

俺にとってはクソほどアホらしーんだ

 

だからよ

 

仮にテメーが逃げてたとしても

 

恥じなくていーと思うよ

 

逃げてるのわかって逃げてるときって

 

すげえ自分を大切にしてるのかもよ

 

ユートピアはなくても

 

待避所はいっぱいあるんだよな

 

とにかくさー

 

痛みや苦しみに耐えられないときは

 

逃げればいーんだからよ

 

逃げたいだけ

 

逃げて逃げて逃げまくれ

 

俺だってそうしてきたさ

 

 

逃げ尽くしたらきっとわかるだろ

 

あー、逃げられないんだなーって

 

そしたら自然と逃げるのバカらしくなって

 

待避所出るだろ

 

だから気のすむまで逃げりゃーいーんだよ

 

立ち向かおうとなんてしなくていーんだ

 

立ち向かおうとすっから

 

よけいに逃げたくなるんだ

 

もうそんな無理も

 

やめちまってよ

 

 

俺ァこの先も

 

立ち向かわねーよ

 

相変わらずびくびくしながら

 

フラフラと危なっかしく

 

かっこ悪くやってくわ

 

ただ逃げ続けんのやめただけ

 

耐えられねーときは

 

いつでも迷わず逃げるよ

 

 

だから俺はそろそろ

 

旅をやめるわ

 

 

ああ、そうそう、最後に

 

旅はやめても

 

俺ァ瞑想はやめねーよ

 

だって瞑想は俺にとって

 

逃避じゃねーんだ

 

うまく言えねーけどよ

 

もろリアルなんだよ

 

だから俺は死ぬまで坐るだろ

 

じゃあな

 

テメーも達者でな

 

あばよ

 

p.s.

なんだこのキャラは笑

 

愛なき私を認めることが愛

 

Chapter1・私には愛がない

 

「私は愛を体現したい」

 

そのように願い、私はスピリチュアルなワークに取り組みました。

 

ヨーガもやりました。

 

仏教的な実践も行いました。

 

しかし、私には愛がありません。

 

本当です。

 

私は自分が気持ち良ければそれでよく、

 

利他や福祉の心はなく、

 

自分本位です。

 

私には愛がないのです。

 

以前はそのようなことは、とても受け入れられませんでした。

 

自分に愛がないなどということは、許されないことでした。

 

しかし、今はそんな自分も許容しています。

 

いえ。

 

許容するという言い方は、ちょっと違うかもしれません。

 

ここには能動的な意味合いは、まるでありません。

 

許容するというよりも、愛のない自分でもしょうがないかなというかんじです。

 

認めざるをえないというほうが、適切な言い方かもしれません。

 

ないものはない。

 

しょうがない。

 

 

Chapter2・私は器ではない

 

私には愛がありません。

 

仕方がないですが、本当です。

 

そこで偉大なる師は、私にこうおっしゃるかもしれません。

 

「ならば与えなさい」と。

 

師よ、すばらしいアドバイスをありがとうございます。

 

だけどそれもやめておきます。

 

私はキリストでもナイチンゲールでもありません。

 

ただの私です。

 

愛のない、器の小さい人間です。

 

愛のある人の真似は、したくはありません。

 

そういう努力は、やり尽くしました。

 

それでも私から、出し惜しみをする心が減じることはありませんでした。

 

そんな葛藤を乗り越えてまで、誰かに何かを与えようとする気は、私にはないのです。

 

それが私の器なのです。

 

そう。

 

私には愛がないのです。

 

ないものねだりは、もうしたくないのです。

 

 

Chapter3・私にあるのは愛欲

 

それでも愛に満ちたあなたは、こうおっしゃるかもしれません。

 

「そんなことはない、あなたにもきっと愛はある」と。

 

朋よ、優しい言葉をありがとうございます。

 

しかし、私には愛がないのです。

 

本当です。

 

私が「〇〇を愛している」と言うとき、

 

たしかに私は、愛によく似たものを表現しています。

 

しかし実のところ、私は愛していません。

 

愛しているふりはしているかもしれません。

 

大切にするそぶりは見せているかもしれません。

 

でもそれは、大切だから大切にしているのではありません。

 

見返りがほしいから、大切にしているのです。

 

見返りが得られないということがわかると、私は冷淡になります。

 

私はさもしい人間です。

 

このとき、私にあるのは愛ではありません。

 

愛欲です。

 

残念ですが、私には愛がないのです。

 

本当です。

 

 

Chapter4・愛なき私を認めることが愛

 

私はずっと、愛がないことを悪いことだと思ってきました。

 

だから愛を身につけようと努力していました。

 

しかし、私はそれが無理なことだと悟りました。

 

このように、自分には愛がないのだとただ認めるとき。

 

そして愛のある人間になることをあきらめたとき。

 

私は、愛のない自分でもそれなりに生きられていることに気づきます。

 

「まあこれでもいいかな」

 

けだるくもすがすがしい気持ちが湧いてきます。

 

すると、これまで私が下劣だとみなしてきた人々・・・

 

愛がなく、

 

愛欲にまみれ、

 

見返りばかり求める人々。

 

程度の差こそあれ、彼らと自分が、本質的には何ら変わりのないことを理解します。

 

「ああ、私も彼らと同じだ」

 

しかもそれは卑下でもなく、

 

愛に対する羨望でもなく、

 

ただ自分には愛がないのだという、それそのままの自覚です。

 

このとき私の内面では、愛のあるなしに対する関心が薄れており、

 

自分がことさらに特別な存在でもなければ、

 

劣った存在でもなく、

 

ただの愛なき一人であることを体感するのです。

 

そう。

 

実はこの脱力感こそ、私にとっての本当の愛だったのです。

 

これによって私の内にある人間不信は、ごくごくわずかに昨日より薄れているのです。

 

そして本当にちょっとだけ、

 

人に優しくしてやってもいいかなという気が起きてくるのです。

 

器の小さい私には、これぐらいの愛がちょうどいいのです。

 

だから私は今日も坐ります。

 

愛なき私のまま。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

 

マインドフルであろうとしない


瞑想の先生は言います。

 

「マインドフルに生きよう」と。

 

私はその言葉を受け、マインドフルになろうとします。

 

注意を今ここに集中させようとします。

 

呼吸に意識を固定しようとします。

 

起きてほしくない思考に雑念というレッテルを貼り、排除しようとします。

 

頭をからっぽにしようとします。

 

自我を敵視し、撲滅を図ります。

 

このとき私は、マインドフルという言葉の定義をなぞらえようとしています。

 

常に心を、マインドフルという鋳型にはめようとしています。

 

私の心は、マインドフルであろうと緊張しています。

 

とんでもなく苦痛です。

 

しかし私は、我が心身に鞭を打って奮い立たせます。

 

「いつか私はマインドフルになるだろう」

 

そう信じて、これを続けます。

 

とうとう私に、高揚した恍惚が訪れます。

 

「これがマインドフルか!?」

 

私は歓喜します。

 

が、2、3日もすると、へとへとです。

 

どうやらこれは、私の願望を投影した幻だったようです。

 

やはり依然、私の心は激しい緊張に包まれています。

 

こんなことを繰り返します。

 

そして私は疲れ果てます。

 

「もういいや」

 

マインドフルであろうとすることをあきらめます。

 

注意を払おうとすることも、

 

集中しようとすることも、

 

雑念を捨てようとすることもやめてしまいます。

 

いえ。

 

やめたというよりも、

 

万策尽きてそうせざるを得ないというほうが、

 

表現としては適切でしょうか。

 

そしてただ坐り、そっと意識を置きます。

 

内面に起きてくることを、起きてくるままにします。

 

何も変えようとせず、ただ気づき続けます。

 

すると私は知ります。

 

自分がまるでマインドフルでないことを。

 

注意は今ここになく、

 

呼吸にも意識はなく、

 

雑念まみれで、

 

心は過去の恨みと未来への不安でいっぱいで、

 

自我にとらわれています。

 

しかし、もうそうした状態をどうにかしようという気も起こらないので、

 

ただそれらに気づいています。

 

この無抵抗の日々を重ねることで、私に不思議なことが起こります。

 

満たされている感じが、じわじわと湧き上がるのです。

 

「マインドフルでなくてもいいじゃん」

 

そして今・・・

 

相変わらず私は、まるでマインドフルではありません。

 

注意散漫で、

 

傲慢で、

 

しばしば被害妄想にとらわれます。

 

しかし、そのことをただ認識しています。

 

そして、そのままにしています。

 

マインドフルになろうとせず、

 

ただ自分がマインドフルでないことに気づいています。

 

心はしょっちゅうざわつきつつも、ときおりちょこっと洞察めいた発見があります。

 

高揚感のない、ぼんやりとした明晰さ。

 

ああ、そうか。

 

私は理解します。

 

実はこれが、私のマインドフルだったのです。

 

マインドフルとは、

 

マインドフルになろうとすることでも、

 

マインドフルであろうとすることでもない。

 

集中できなくていい。

 

雑念だらけでもいい。

 

恐怖にとらわれていてもいい。

 

自我に振り回されていてもいい。

 

大した気づきはなくてもいい。

 

ただ気づいていること。

 

マインドフルとは、それだけだったのです。

 

そしてそれは、きわめて奥が深いことだったのです。

 

だから私は、今日も坐ります。

 

マインドフルであろうとせずに。

 

南光自然観察村 DE キャンプ

はいはい。

 

予告どおり、レポートしますよ。

 

前回記事でご紹介した、一斗缶の焚き火台。

 

その焚き火台をキャンプ場で使用しましたので、報告したいと思います。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

南光自然観察村

 

4月下旬。

 

兵庫県佐用町。

 

県内では、南北は真ん中少し南、東西は岡山県との県境近くに位置するキャンプ場、

 

南光自然観察村に行ってまいりました。

 

はい。

 

いわゆるソロキャンプというやつです。

 

ブームに乗ったと思われるのはシャクなのですが、前からやってみたかったのです。

 

平日だったため、利用客はちらほらとしか見かけなかったのですが、施設の職員さんによると、やはり土曜日はとても人が多いようです。

 

キャンプブームの影響は大きそうですね。

 

もういつぶりかわからないぐらい久しぶりのキャンプなので、ほかのキャンプ場と比較はできんのですが・・・

 

ここのキャンプ場は、なかなかにすばらしい施設でして。

 

ちょっとその紹介をさせていただきたいと思います。

 

充実の設備

 

ほかのキャンプ場がどうかは知らないのですが・・・

 

ここのキャンプ場には、水道が通っています。

 

そのため、トイレは水洗ですし、炊事場の水も、そのまま飲めます。

 

水が安心して使えるというのは、とても便利ですね。

 

さらに、ここには浴場まであるのです。

 

シャワー付きの洗い場とバスタブも備え付けられています。

 

汗を流したり、キャンプファイアーや焚き火の後のススくささを落としたりできるのは、とてもありがたいですね。

 

宿泊ブースは、オートテントサイトやフリーテントサイトのほかに、コテージやツリーハウスなどもあるようです。

 

オートテントサイト

 

コテージ

 

テントサイトには、電源もあります。

 

バーベキューサイトも無料で使えます。

 

バーベキューコンロを持参しなくても、バーベキューが楽しめるんですね~。

 

 

あと、私は利用しませんでしたが・・・

 

ここにはフィンランド式サウナもあるようです。

 

事前に予約すれば、サウナも味わえるというわけです。

 

詳しくは、当施設のウェブサイトをご覧いただければと思います。

 

南光自然観察村 キャンプ場 佐用町 【公式】

 

清潔な施設

 

施設は全体的に清潔でした。

 

清掃が行き届いているのでしょうね。

 

トイレが汚かったらどうしようと思っていたのですが、それも取り越し苦労でした。

 

きれいな水洗トイレ。

 

トイレットペーパーも備え付けられています。

 

炊事場もこの通り。

 

 

 

 

ゴミは捨てて帰れます

 

キャンプ場はゴミの持ち帰りが定石かと思いきや・・・

 

ここにはゴミ置き場が設置されています。

 

ゴミは可燃物や不燃物等に分別のうえ、捨てて帰ることが可能です。

 

これは本当にありがたい!

 

 

キャンプレポート

 

それでは、私が実際に利用した様子をお伝えしましょう。

 

①オートテントサイト

 

私はオートテントサイトを利用しました。

 

サイトまで車を乗り着けることができます。

 

離れの駐車場から荷物を運んだりしなくていいので、とても便利ですね。

 

 

オートテントサイトは全部で24区画あるのですが、当日は私以外に2組が利用しているようでした。

 

隣の区画に利用者がいないので、気兼ねなく使えます。

 

平日でよかった!

 

さて、やることもないので・・・

 

ブルーシートの上でのんびりします。

 

想定外だったのですが、キャンプ中は終始風が強く、私が載っていないとブルーシートが飛ばされてしまいます。

 

受付でペグを借りて、ブルーシートを留めます。

 

ペグは無料で貸していただきました。

 

ありがとうございます。

 

②テント設営

 

私の車は、寝泊まりできる広さがじゅうぶんあります。

 

また、春なので気温も穏やかです。

 

テントを設営しなくても車中泊が可能なのですが・・・

 

せっかくキャンプ場に来たので、テントに泊まることにします。

 

というわけで、10年前に登山用に購入して、1度も使ったことのなかったテントを組み立てます。

 

インターネットで確認しつつ、案外簡単に設営できました。

 

 

おお!

 

なんかキャンプっぽい。

 

夜が近づいてきましたので、夕食と焚き火を始めます。

 

③自作焚き火台使用

 

ここで焚き火台の登場です。

 

 

キャンプビギナーな私は、焚き火の点火ができるかどうか心配です。

 

そこで火がつきやすく、燃え尽きるのが早いという針葉樹の薪を使いました。

 

ちなみに広葉樹の薪は身が詰まっており、その逆の特性があるということです。

 

火を早くつけたいなら針葉樹の薪を、火を長く持続したいなら広葉樹の薪を使用するというかんじですかね。

 

おかげさまで、無事に点火できました。

 

一度薪に火がついたら、あとは都度に薪を足し入れてOKです。

 

しかし、大変に残念なことですが・・・

 

ああ、やっぱり焚き火って癒される。

 

・・・とはなりませんでした。

 

キャンプ場はとても風が強く、焚き火台の開口部から灰がどんどん飛び出てしまうのです。

 

近くの区画にほかに利用客がいなかったのは幸いでしたが、今後、灰が飛び散らないようにする配慮が必要となってくるかと思います。

 

何はともあれ、焚き火台の用をなしたので、よしとしましょう。

 

 

そして夜は更けていきます。

 

4月下旬にもかかわらず、大変に寒かったですが・・・

 

星空がとても美しかったです。

 

自然に囲まれて、本当に久しぶりにぐっすり眠れました。

 

さて、人生初のソロキャンプ。

 

色々面倒なので、たぶんもうやらないと思いますが、楽しかったです。

 

あなたも興味おありなら、体験なさってはいかがでしょうか。

 

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南光自然観察村

電話・FAX 0790-77-0160

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