本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

小さく妥協することもまたすばらしい

 

成功者への羨望

 

私は羨んでいた。

 

ああ、彼らはなんて活き活きと暮らしているのだろうか。

 

仕事も充実しているし、

 

趣味も楽しんでいて、

 

対人関係も円満だ。

 

私には、そう見えていた。

 

それにひきかえ、私はどうだ。

 

仕事もできないし、

 

趣味も中途半端で、

 

対人恐怖もきわめて強い。

 

ああ、彼らのようになりたいなあ。

 

世間で名を上げたいなあ。

 

私は、彼らのようになろうと自己啓発を続けた。

 

どんなに努力をしても、

 

彼らのようにはならなかった。

 

冴えない私のままだった。

 

私はあきらめた。

 

世間で名を上げることは、私には無理だなあ。

 

 

超越者への羨望

 

すると、スピリチュアルリーダーが現れた。

 

彼らは恐怖を超越した聖者のようだった。

 

私には、そう見えていた。

 

私は期待した。

 

彼らのように恐怖を超越すれば、

 

私も自由に生きられるにちがいない。

 

もしくは、物質世界では辛酸をなめ続けたが、

 

精神世界でなら活躍できるかもしれない。

 

私は、行に励んだ。

 

どんなに努力をしても、

 

彼らのようにはならなかった。

 

対人恐怖で身動きが取れない私のままだった。

 

また、プライドが高すぎて、精神世界でも協調できなかった。

 

私はあきらめた。

 

恐怖を超越することも、

 

精神世界で活躍することも、

 

どうやら私には無理のようだなあ。

 

 

私は私にしかなれない

 

誰かのようになるとか、

 

名を上げるとか、

 

活躍するとか。

 

そういうこと自体、もういいや。

 

野心をいたずらに満たそうとした私が愚かだったようだ。

 

よくわかった。

 

うらやんだところで、私は私にしかなれない。

 

私は私にできるようにしかできない。

 

「雁が飛べば、石亀も地団駄」

 

石亀でもいいんじゃない。

 

翼はなくても、硬い甲羅がある。

 

甲羅の中にうずくまり、またはゆっくり歩けばいい。

 

小さく妥協する

 

世の中には、羨望を掻き立てるような情報であふれている。

 

大きなことを成し遂げることや、

 

人生を存分に謳歌すること、

 

妥協せずにやりたいようにやることが、

 

すばらしいことだともてはやされているかもしれない。

 

それがすばらしいことかどうか、

 

今の私にはわからない。

 

私に言えた義理ではないが、

 

おのおのの好きでいいと私は思う。

 

しかし、それらがすばらしいことならば、

 

小さく妥協しながら、今できることだけをやることもまた、

 

同じくらいにすばらしいにちがいない。

 

分をわきまえる

 

「私のようになりたいですか」

 

この先、誰が現れてそう言おうと、

 

私はこう答えるだろう。

 

「遠慮しておきます」

 

たしかにあなたはすばらしいが、

 

私はあなたではありません。

 

だからあなたのようにはなれません。

 

不合理でも、

 

納得がいかなくても、

 

輝かしくなくても、

 

私は私の分をわきまえて、

 

今の私にできることだけを、

 

細々とやり続けます。

 

 

注釈1

 

以前はわかりませんでしたが、

 

かつて私が羨んだ人たち。

 

充実した生活を送っているように見える彼らや、

 

恐怖を超越したかのように見える彼らにも、

 

彼らに見合った苦悩がたくさんあるようです。

 

きっと私には、そんなものは背負いきれないでしょう。

 

注釈2

 

誤解のないようにお願いしたいのですが、

 

私は成功したいという望みや、やりたいようにやることを否定しているわけではありません。

 

誰しもそういった欲求は、大なり小なりあると、私は思います。

 

当然私にも、大いにあります。

 

欲求があるのなら、裏腹に恐怖がある。

 

それもまた、まぎれもない事実です。

 

私は、不本意ながらも、この恐怖の影響を強く受けてしまうようです。

 

欲求や恐怖とどのように折り合いをつけるか。

 

それは人それぞれだと、私は思うのです。

 

逃避行の果てに

俺はそろそろ

 

旅をやめるわ

 

 

俺はいつも

 

極端から極端へ

 

サルのように飛び回ってたさ

 

絶対的なイデオロギーを求めて

 

超越者とか

 

隠遁者とか

 

悟りとか

 

真理とか

 

不動心とか

 

そんなことに逃避してきたんだ

 

それはすばらしい時間だったなー

 

ちょっと気持ちよくなったり

 

スゴイ人間になったような気がしたり

 

覚者ごっこに興じたり

 

 

でもよ

 

そんときゃ俺もわかっちゃいなかったけどよ

 

全然地に足がついてなかったわ

 

逃げて逃げて逃げまくって

 

俺はようやくあきらめたんだ

 

あー、逃げられないんだなーって

 

都合のいいユートピアなんてないんだなーって

 

結局さー

 

いずれは現実と折り合いつけねーとしゃーないんだよなー

 

 

あ、誤解すんなよな

 

何も俺は

 

逃げるなとか言いたいわけじゃねーから

 

俺はそーゆーの

 

ホントもういーからよ

 

逃げ続けたことに

 

全然後悔ねーよ俺は

 

そんときゃ俺も

 

それしかできなかったんだからよ

 

これは断言すっけど

 

逃げ続けたことが

 

そんときの俺のベストだったんだからよ

 

 

だからよ

 

仮にテメーが逃げてたとしても

 

恥じなくていーんだよ

 

逃げてるのわかって逃げてるときって

 

すげえ自分を大切にしてるのかもよ

 

ユートピアはなくても

 

待避所はいっぱいあるんだよな

 

痛みや苦しみに耐えられないときは

 

逃げればいーんだからよ

 

逃げたいだけ

 

逃げて逃げて逃げまくれ

 

俺だってそうしてきたさ

 

 

逃げ尽くしたらきっとわかるだろ

 

あー、逃げられないんだなーって

 

そしたら自然と逃げるのバカらしくなって

 

待避所出るだろ

 

だから気のすむまで逃げりゃーいーんだよ

 

立ち向かおうとなんてしなくていーんだ

 

立ち向かおうとすっから

 

よけいに逃げたくなるんだ

 

もうそんな無理も

 

やめちまってよ

 

 

俺ァこの先も

 

立ち向かわねーよ

 

相変わらずびくびくしながら

 

フラフラと危なっかしく

 

かっこ悪くやってくわ

 

ただ逃げ続けんのやめただけ

 

耐えられねーときは

 

いつでも迷わず逃げるよ

 

 

だから俺はそろそろ

 

旅をやめるわ

 

 

ああ、そうそう、最後に

 

旅はやめても

 

俺ァ瞑想はやめねーよ

 

だって瞑想は俺にとって

 

逃避じゃねーんだ

 

うまく言えねーけどよ

 

もろリアルなんだよ

 

だから俺は死ぬまで坐るだろ

 

じゃあな

 

テメーも達者でな

 

あばよ

 

p.s.

なんだこのキャラは笑

 

愛なき私を認めることが愛

 

Chapter1・私には愛がない

 

「私は愛を体現したい」

 

そのように願い、私はスピリチュアルなワークに取り組みました。

 

ヨーガもやりました。

 

仏教的な実践も行いました。

 

しかし、私には愛がありません。

 

本当です。

 

私は自分が気持ち良ければそれでよく、

 

利他や福祉の心はなく、

 

自分本位です。

 

私には愛がないのです。

 

以前はそのようなことは、とても受け入れられませんでした。

 

自分に愛がないなどということは、許されないことでした。

 

しかし、今はそんな自分も許容しています。

 

いえ。

 

許容するという言い方は、ちょっと違うかもしれません。

 

ここには能動的な意味合いは、まるでありません。

 

許容するというよりも、愛のない自分でもしょうがないかなというかんじです。

 

認めざるをえないというほうが、適切な言い方かもしれません。

 

ないものはない。

 

しょうがない。

 

 

Chapter2・私は器ではない

 

私には愛がありません。

 

仕方がないですが、本当です。

 

そこで偉大なる師は、私にこうおっしゃるかもしれません。

 

「ならば与えなさい」と。

 

師よ、すばらしいアドバイスをありがとうございます。

 

だけどそれもやめておきます。

 

私はキリストでもナイチンゲールでもありません。

 

ただの私です。

 

愛のない、器の小さい人間です。

 

愛のある人の真似は、したくはありません。

 

そういう努力は、やり尽くしました。

 

それでも私から、出し惜しみをする心が減じることはありませんでした。

 

そんな葛藤を乗り越えてまで、誰かに何かを与えようとする気は、私にはないのです。

 

それが私の器なのです。

 

そう。

 

私には愛がないのです。

 

ないものねだりは、もうしたくないのです。

 

 

Chapter3・私にあるのは愛欲

 

それでも愛に満ちたあなたは、こうおっしゃるかもしれません。

 

「そんなことはない、あなたにもきっと愛はある」と。

 

朋よ、優しい言葉をありがとうございます。

 

しかし、私には愛がないのです。

 

本当です。

 

私が「〇〇を愛している」と言うとき、

 

たしかに私は、愛によく似たものを表現しています。

 

しかし実のところ、私は愛していません。

 

愛しているふりはしているかもしれません。

 

大切にするそぶりは見せているかもしれません。

 

でもそれは、大切だから大切にしているのではありません。

 

見返りがほしいから、大切にしているのです。

 

見返りが得られないということがわかると、私は冷淡になります。

 

私はさもしい人間です。

 

このとき、私にあるのは愛ではありません。

 

愛欲です。

 

残念ですが、私には愛がないのです。

 

本当です。

 

 

Chapter4・愛なき私を認めることが愛

 

私はずっと、愛がないことを悪いことだと思ってきました。

 

だから愛を身につけようと努力していました。

 

しかし、私はそれが無理なことだと悟りました。

 

このように、自分には愛がないのだとただ認めるとき。

 

そして愛のある人間になることをあきらめたとき。

 

私は、愛のない自分でもそれなりに生きられていることに気づきます。

 

「まあこれでもいいかな」

 

けだるくもすがすがしい気持ちが湧いてきます。

 

すると、これまで私が下劣だとみなしてきた人々・・・

 

愛がなく、

 

愛欲にまみれ、

 

見返りばかり求める人々。

 

程度の差こそあれ、彼らと自分が、本質的には何ら変わりのないことを理解します。

 

「ああ、私も彼らと同じだ」

 

しかもそれは卑下でもなく、

 

愛に対する羨望でもなく、

 

ただ自分には愛がないのだという、それそのままの自覚です。

 

このとき私の内面では、愛のあるなしに対する関心が薄れており、

 

自分がことさらに特別な存在でもなければ、

 

劣った存在でもなく、

 

ただの愛なき一人であることを体感するのです。

 

そう。

 

実はこの脱力感こそ、私にとっての本当の愛だったのです。

 

これによって私の内にある人間不信は、ごくごくわずかに昨日より薄れているのです。

 

そして本当にちょっとだけ、

 

人に優しくしてやってもいいかなという気が起きてくるのです。

 

器の小さい私には、これぐらいの愛がちょうどいいのです。

 

だから私は今日も坐ります。

 

愛なき私のまま。

 

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マインドフルであろうとしない


瞑想の先生は言います。

 

「マインドフルに生きよう」と。

 

私はその言葉を受け、マインドフルになろうとします。

 

注意を今ここに集中させようとします。

 

呼吸に意識を固定しようとします。

 

起きてほしくない思考に雑念というレッテルを貼り、排除しようとします。

 

頭をからっぽにしようとします。

 

自我を敵視し、撲滅を図ります。

 

このとき私は、マインドフルという言葉の定義をなぞらえようとしています。

 

常に心を、マインドフルという鋳型にはめようとしています。

 

私の心は、マインドフルであろうと緊張しています。

 

とんでもなく苦痛です。

 

しかし私は、我が心身に鞭を打って奮い立たせます。

 

「いつか私はマインドフルになるだろう」

 

そう信じて、これを続けます。

 

とうとう私に、高揚した恍惚が訪れます。

 

「これがマインドフルか!?」

 

私は歓喜します。

 

が、2、3日もすると、へとへとです。

 

どうやらこれは、私の願望を投影した幻だったようです。

 

やはり依然、私の心は激しい緊張に包まれています。

 

こんなことを繰り返します。

 

そして私は疲れ果てます。

 

「もういいや」

 

マインドフルであろうとすることをあきらめます。

 

注意を払おうとすることも、

 

集中しようとすることも、

 

雑念を捨てようとすることもやめてしまいます。

 

いえ。

 

やめたというよりも、

 

万策尽きてそうせざるを得ないというほうが、

 

表現としては適切でしょうか。

 

そしてただ坐り、そっと意識を置きます。

 

内面に起きてくることを、起きてくるままにします。

 

何も変えようとせず、ただ気づき続けます。

 

すると私は知ります。

 

自分がまるでマインドフルでないことを。

 

注意は今ここになく、

 

呼吸にも意識はなく、

 

雑念まみれで、

 

心は過去の恨みと未来への不安でいっぱいで、

 

自我にとらわれています。

 

しかし、もうそうした状態をどうにかしようという気も起こらないので、

 

ただそれらに気づいています。

 

この無抵抗の日々を重ねることで、私に不思議なことが起こります。

 

満たされている感じが、じわじわと湧き上がるのです。

 

「マインドフルでなくてもいいじゃん」

 

そして今・・・

 

相変わらず私は、まるでマインドフルではありません。

 

注意散漫で、

 

傲慢で、

 

しばしば被害妄想にとらわれます。

 

しかし、そのことをただ認識しています。

 

そして、そのままにしています。

 

マインドフルになろうとせず、

 

ただ自分がマインドフルでないことに気づいています。

 

心はしょっちゅうざわつきつつも、ときおりちょこっと洞察めいた発見があります。

 

高揚感のない、ぼんやりとした明晰さ。

 

ああ、そうか。

 

私は理解します。

 

実はこれが、私のマインドフルだったのです。

 

マインドフルとは、

 

マインドフルになろうとすることでも、

 

マインドフルであろうとすることでもない。

 

集中できなくていい。

 

雑念だらけでもいい。

 

恐怖にとらわれていてもいい。

 

自我に振り回されていてもいい。

 

大した気づきはなくてもいい。

 

ただ気づいていること。

 

マインドフルとは、それだけだったのです。

 

そしてそれは、きわめて奥が深いことだったのです。

 

だから私は、今日も坐ります。

 

マインドフルであろうとせずに。

 

南光自然観察村 DE キャンプ

はいはい。

 

予告どおり、レポートしますよ。

 

前回記事でご紹介した、一斗缶の焚き火台。

 

その焚き火台をキャンプ場で使用しましたので、報告したいと思います。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

南光自然観察村

 

4月下旬。

 

兵庫県佐用町。

 

県内では、南北は真ん中少し南、東西は岡山県との県境近くに位置するキャンプ場、

 

南光自然観察村に行ってまいりました。

 

はい。

 

いわゆるソロキャンプというやつです。

 

ブームに乗ったと思われるのはシャクなのですが、前からやってみたかったのです。

 

平日だったため、利用客はちらほらとしか見かけなかったのですが、施設の職員さんによると、やはり土曜日はとても人が多いようです。

 

キャンプブームの影響は大きそうですね。

 

もういつぶりかわからないぐらい久しぶりのキャンプなので、ほかのキャンプ場と比較はできんのですが・・・

 

ここのキャンプ場は、なかなかにすばらしい施設でして。

 

ちょっとその紹介をさせていただきたいと思います。

 

充実の設備

 

ほかのキャンプ場がどうかは知らないのですが・・・

 

ここのキャンプ場には、水道が通っています。

 

そのため、トイレは水洗ですし、炊事場の水も、そのまま飲めます。

 

水が安心して使えるというのは、とても便利ですね。

 

さらに、ここには浴場まであるのです。

 

シャワー付きの洗い場とバスタブも備え付けられています。

 

汗を流したり、キャンプファイアーや焚き火の後のススくささを落としたりできるのは、とてもありがたいですね。

 

宿泊ブースは、オートテントサイトやフリーテントサイトのほかに、コテージやツリーハウスなどもあるようです。

 

オートテントサイト

 

コテージ

 

テントサイトには、電源もあります。

 

バーベキューサイトも無料で使えます。

 

バーベキューコンロを持参しなくても、バーベキューが楽しめるんですね~。

 

 

あと、私は利用しませんでしたが・・・

 

ここにはフィンランド式サウナもあるようです。

 

事前に予約すれば、サウナも味わえるというわけです。

 

詳しくは、当施設のウェブサイトをご覧いただければと思います。

 

南光自然観察村 キャンプ場 佐用町 【公式】

 

清潔な施設

 

施設は全体的に清潔でした。

 

清掃が行き届いているのでしょうね。

 

トイレが汚かったらどうしようと思っていたのですが、それも取り越し苦労でした。

 

きれいな水洗トイレ。

 

トイレットペーパーも備え付けられています。

 

炊事場もこの通り。

 

 

 

 

ゴミは捨てて帰れます

 

キャンプ場はゴミの持ち帰りが定石かと思いきや・・・

 

ここにはゴミ置き場が設置されています。

 

ゴミは可燃物や不燃物等に分別のうえ、捨てて帰ることが可能です。

 

これは本当にありがたい!

 

 

キャンプレポート

 

それでは、私が実際に利用した様子をお伝えしましょう。

 

①オートテントサイト

 

私はオートテントサイトを利用しました。

 

サイトまで車を乗り着けることができます。

 

離れの駐車場から荷物を運んだりしなくていいので、とても便利ですね。

 

 

オートテントサイトは全部で24区画あるのですが、当日は私以外に2組が利用しているようでした。

 

隣の区画に利用者がいないので、気兼ねなく使えます。

 

平日でよかった!

 

さて、やることもないので・・・

 

ブルーシートの上でのんびりします。

 

想定外だったのですが、キャンプ中は終始風が強く、私が載っていないとブルーシートが飛ばされてしまいます。

 

受付でペグを借りて、ブルーシートを留めます。

 

ペグは無料で貸していただきました。

 

ありがとうございます。

 

②テント設営

 

私の車は、寝泊まりできる広さがじゅうぶんあります。

 

また、春なので気温も穏やかです。

 

テントを設営しなくても車中泊が可能なのですが・・・

 

せっかくキャンプ場に来たので、テントに泊まることにします。

 

というわけで、10年前に登山用に購入して、1度も使ったことのなかったテントを組み立てます。

 

インターネットで確認しつつ、案外簡単に設営できました。

 

 

おお!

 

なんかキャンプっぽい。

 

夜が近づいてきましたので、夕食と焚き火を始めます。

 

③自作焚き火台使用

 

ここで焚き火台の登場です。

 

 

キャンプビギナーな私は、焚き火の点火ができるかどうか心配です。

 

そこで火がつきやすく、燃え尽きるのが早いという針葉樹の薪を使いました。

 

ちなみに広葉樹の薪は身が詰まっており、その逆の特性があるということです。

 

火を早くつけたいなら針葉樹の薪を、火を長く持続したいなら広葉樹の薪を使用するというかんじですかね。

 

おかげさまで、無事に点火できました。

 

一度薪に火がついたら、あとは都度に薪を足し入れてOKです。

 

しかし、大変に残念なことですが・・・

 

ああ、やっぱり焚き火って癒される。

 

・・・とはなりませんでした。

 

キャンプ場はとても風が強く、焚き火台の開口部から灰がどんどん飛び出てしまうのです。

 

近くの区画にほかに利用客がいなかったのは幸いでしたが、今後、灰が飛び散らないようにする配慮が必要となってくるかと思います。

 

何はともあれ、焚き火台の用をなしたので、よしとしましょう。

 

 

そして夜は更けていきます。

 

4月下旬にもかかわらず、大変に寒かったですが・・・

 

星空がとても美しかったです。

 

自然に囲まれて、本当に久しぶりにぐっすり眠れました。

 

さて、人生初のソロキャンプ。

 

色々面倒なので、たぶんもうやらないと思いますが、楽しかったです。

 

あなたも興味おありなら、体験なさってはいかがでしょうか。

 

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南光自然観察村

電話・FAX 0790-77-0160

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www.nanko-camp.com

 

 

 

一斗缶で焚き火台を自作

まいど、瞑想好きおじさんのhammerです。

 

「生きるとは・・・」とか神妙なことばっかり書くのも何なので、たまには薬にも毒にもならない記事でも執筆しますかな。

 

瞑想のことがお目当ての方はどうせ読まないでしょうが、箸休めにでもお付き合いいただけましたら幸いです。

 

ぷろろーぐ

 

自宅敷地内の脇に、空の一斗缶が転がっていました。

 

多少汚れてはいるものの、洗えばまだ何かに使えそうです。

 

たいていは、今使わないものは手放す私ですが・・・

 

「この一斗缶は、きっと出番が来ることになるだろう」

 

そう思い、とりあえずキープしていました。

 

そして数か月。

 

この度、キャンプ場で焚き火がしたい気持ちが湧いてきまして・・・

 

「焚き火台、いいかもしれない」

 

この一斗缶で、焚き火台を作ることにしました。

 

というわけで、慣れない工具を片手に、工作に励むこと2日間。

 

DIYの心得がない私でも、なんとか焚き火台を自作することができました。

 

 

実を言うと、デザインはキャプテンスタッグの焚き火台↓をパクらせて参考にさせていただきました。

 

御社に深くお礼申し上げます。

 

 

作るのけっこう大変だった

 

制作過程は撮影していませんが・・・

 

私にとっては大変な作業でした。

 

生まれて初めて、電動ドリルを使いました。

 

一斗缶の表面って、思ってた以上に硬いんですね。

 

ドリルで穴を開けるのにも時間がかかりましたし、

 

金切ハサミで缶側面を切開するのも難航しました。

 

また、缶の切り口は鋭利で、そのままだとケガをしそうです。

 

そのため、切り口の淵をペンチで折り込むのですが・・・

 

これが細かいうえに、握力を使う作業でした。

 

 

そんなこんなで、完成までほぼ丸2日かかっています。

 

メーカーの既製品であれば2,000円ほどで買えるので、自作の労力をコスパに換算するなら、非常に悪いと言わざるをえないでしょう。

 

しかし、自作をしたということと、捨てられる運命の一斗缶を有効利用したということに対する自己満足は、お金では買えんのです。

 

せーるすぽいんと

 

さて、DIYド素人の私なりに、この焚き火台には工夫した部分がありまして・・・

 

燃えカスが掃除しやすいよう、正面に大きな開口部を設けています。

 

 

そして、缶の最下部から約10cm浮かせたところにレールを設置しておりまして、

 

ここに灰の受け皿が設置できるのです。

 

 

 

これで、火元が直接地面に触れずにすむというわけです。

 

また、後で気づいたのですが、受け皿は焚き火台の最下部に置くこともできます。

 

 

これにより、火元の位置を上下の二段階で調節できますね。

 

実際に使うケースがあるのかどうかはわかりませんが・・・

 

下段を使用する際は、焚き火台の下にレンガ等を敷くなどして、焚き火台を地面から浮かせる配慮が必要かもしれません。

 

受け皿は、近くのホームセンターで買いました。

 

ちょうどいい大きさのものがあったので。

 

思った以上にうまい具合にはまってくれて感激です。

 

 

以上、自作焚き火台の紹介でした。

 

見た目は粗がありますが、私なりにそれなりのものができたので、充実感もひとしおです。

 

次回、キャンプ場のレポートを兼ねて、使用感をお伝えしたいと思います。

 

 

今ここという永遠 ~自然治癒力~


私たちが時間だと思っているもの。

 

時計で測れるような時間。

 

今、何時何分であるというようなことや、

 

何かをするのに何分かかるというようなことや、

 

いついつまでに何々をしなければならないというようなこと。

 

私たちはこの区切りこそが、実在する時間であると信じてきた。

 

だがもしかすると、そうではないのかもしれない。

 

私たちは、思考を思考であると認めることで、

 

これらの時間は思考の産物であることがわかるのである。

 

この時間は、測定のための道具である。

 

もちろんこの道具は、人間にとって大変有用なものであることは疑いのないことであろう。

 

しかし、これらは真の時間であるといえるだろうか。

 

もし真の時間というものがあるのならば、それは一体何なのだろうか。

 

そこに佇み、ただそっと意識を置くこと。

 

この開かれた優しい注意は、私たちに時間についての理解を与える。

 

本当の意味での時間というものは、どうやら時計が示すものではないらしい。

 

それは今ここにある。

 

今こことは、永遠のなかの一瞬である。

 

そう。

 

真の時間とは、永遠のことなのである。

 

それを私たちは、思考ではなく気づきで感じ取る。

 

理解できなくても何も問題はないが・・・

 

これは決して、神秘的な話ではない。

 

永遠とは、修行によって到達できる場所でも、特殊な能力によって生み出せる時間でもない。

 

霊的に優れた人だけの独占物でもない。

 

永遠とは、私たちに等しく開かれているものである。

 

まさに、今ここにあるものなのである。

 

そして、私たちがただ気づくことで、今ここで触れることができるものである。

 

「触れている」とはっきりとわからなくても、あなたが今の自分自身に気づいているなら、きっと触れているのである。

 

私たちが事態をいじくり回さないならば・・・

 

この永遠という時間の流れは、ものごとを自然な姿に変容させるようだ。

 

まるで踏み荒らされた砂漠が、人間が修正を加えなくても、ときと共にその風紋を描き直すように。

 

時間を部分に切り分けて観るなら、

 

ときに不都合な出来事や痛ましい事件もあるかもしれないが、

 

永遠という流れで観るなら、

 

この流れは、確実に全体を浄化させているのである。

 

自然治癒力とはまさに、これなのかもしれない。

 

この理解は、私たちをむやみな行動から解放する。

 

そして私たちを、行動しなければならない存在から、単なる存在へと立ち返らせてくれるのである。

 

純粋な行為は、ここから生まれるのである。

 

今ここという永遠は、私たちの精神をも浄化するのである。

 

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