「本質」で生きるマインドフルネス

真の自由とは、「本質」のあなたで生きること

振袖山の日の出【放浪記】

今回はちょっと瞑想や真理(心理)の話はお休みです。

 

僕が住む関西のローカルスポットをご紹介したいと思います。

 

お付き合いいただけると幸いです。

 

振袖山

 

正月三が日の某日朝、日の出が見たいと思い立ちました。

 

そこで、兵庫県姫路市振袖山(ふりそでやま)へ向かいます。

 

ここは標高120mほどのいわゆる低山で、ふもとの高岳神社から歩いて10分ほどで山頂に至れます。

 

僕にとってはさほど労せず登頂できるうえに、ここからの姫路市の眺望が美しいのです。

 

僕は日の出が見たいときは、たまにここに来ます。

 

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本日も、美しい日の出を拝むことができました。

 

今日と言う一日を迎えられたことに、僕たちを等しく照らしてくれる太陽に、大自然の営みに感謝いたします。

 

高岳神社

 

せっかくですので、ふもとの高岳神社(たかおかじんじゃ)も参拝しましょう。

 

ここは延喜式平安時代の法律)の神社一覧にも載っているという、由緒正しい神社です。

 

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少し階段を昇ったところに本殿があります。

 

さて、この神社で特筆したいところは、本殿の裏に鎮座している奇岩・蛤岩(はまぐりいわ)です。

 

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写真で伝わるかどうかはわかりませんが、僕はこの岩に神秘的な存在感を感じるのです。

 

「地元の神社」といった規模のコンパクトな神社ですが、雰囲気のあるシブい名所だと思います。

 

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高岳神社

所在:兵庫県姫路市西今宿8丁目5-8

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結び

 

今回は我が地元・関西にある振袖山高岳神社をご紹介しました。

 

セットで楽しめる「オススメスポット」です。

 

姫路市といえば、言わずと知れた国宝・世界遺産の姫路城が有名でしょう。

 

もちろん、姫路城が素晴らしい名所であることは、僕もまったく疑う余地はありません。

 

しかし、有名な観光地だけが名所であるとはかぎらないと、僕は思っています。

 

たまにはマニアックな場所に目を向けてみる旅というのも、面白いかもしれません。

 

※※ご注意※※

 

この記事を執筆したときと状況が変わり、現時点で兵庫県では緊急事態宣言が発令されています。

 

今は旅目的での来訪を控えていただきますよう、ご協力をお願いします。

 

記事公開の自粛も念頭にあったのですが、せっかく撮影・執筆しましたので、執筆当初の文章のまま公開へと踏み切らせていただきました。

 

ご理解・ご容赦願えましたら幸いです。

 

苦手克服に潜む危険性

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前回、苦手なものは苦手なままでよく、ただ「自分はこれが苦手だと感じているのだ」と気づき続ければよいと申し上げました。

 

今回の記事は、その補足説明となるものです。

 

タイトルに「危険性」とありますが、これはあなたに強迫観念を与えるためのものではありません。

 

あなたの希望を摘み取り、絶望の淵においやるためのものでもありません。

 

むしろその逆で、「苦手克服しか道がない」と長年苦しんできた方に、別の楽な方法が選択できるよう、その後押しをさせていただきたい。

 

あなたを呪縛から解き放つ一助となればと願い、記すものです。

 

前回記事

hamamon91.hatenablog.com

 

 苦手意識は努力だけでなくせるようなものではない

 

「苦手なものはあってはならない」

 

脅迫的に苦手克服へと駆られる方の多くが、おそらくこの考えに基づいているのではないかと思います。

 

そこでまず、自分の心にある苦手意識をなくそうと努力するのではないでしょうか。

 

しかし、克服し難い強い苦手意識に対峙したとき、この努力は苦行となります。

 

苦手意識とは、無意識に深く根付いた恐怖心からくるものです。

 

これは少しずつ認めていただきたい非常に残念な真実なのですが、幼い頃の忌まわしい記憶などに基づく強い恐怖心は、意志の力でコントロールできるような代物ではないということです。

 

それは抑圧して消せるようなものではないでしょう。

(むしろ心の激しい抵抗によって、自分が傷つく可能性が高いでしょう。)

 

ましてや偽りのポジティブ思考で置き換えられるような生易しいものではないということは、あなたももう充分経験されたのではないでしょうか。

 

つまり、強い苦手意識は、自分の意志による努力だけで「打ち勝てる」ようなものではない。

 

僕はそう思っています。

 

無意識に深く刻まれた傷が癒えるには、時間が必要なのです。

 

自分を攻撃する危険

 

もし、「苦手なものはあってはならない」

 

この考えを妄信したまま、苦手意識をなくそうとすることに挫折したなら、次はどうするでしょうか。

 

「あってはならない」のですから、苦手なものそのものを排除しようとするのではないでしょうか。

 

その存在自体を、どうにかしようとするのではないでしょうか。

 

その苦手なものが、生命体、たとえば「人」だったらどうでしょうか。

 

悪意ある態度や行為で攻撃し、相手を自分の周囲から追い出そう・消そうとするかもしれません。

 

その極端な例が、学校や会社でのいじめであったり、究極的には民族的ホロコーストであったりするのではないでしょうか。

 

しかし、きっとあなたはそんなことはしないでしょう。

 

なぜなら、この記事を真剣に読む方にとって、苦手とする対象は、おそらく強い恐怖を感じる人だろうからです。

 

排除などできるはずがありません。

 

そこで、「逃げる」という選択肢を取りたくなる。

 

しかし、世間では依然、「逃げてはいけない」という考えが信じられる傾向にある。

 

八方ふさがりとなった生真面目なあなたは、苦手意識を持つ自分を、そして、そこから逃げたくなる自分を攻撃するでしょう。

 

こうして苦手な相手に怯え、そんな自分をも責めるという地獄の日々が始まるのです。

 

僕がこのブログにおいて一貫して、苦手なものから離れることを積極的に容認しているのは、こういう理由からです。

 

苦手を排除しようと不毛な戦いに興じるくらいなら、たとえ「逃げている」と言われても、離れるほうが自分も相手も害さずに済むからです。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

苦手意識の存在を認める

 

だから僕は、「苦手を克服しよう」と躍起になることはむしろ危険だと感じるのです。

 

そして、「苦手なものは苦手なままでいい」つまり、苦手なものの存在を認めることを推奨しているのです。

 

前回の記事でも申しましたが、これは決して、「苦手なものを好きになろう」と努力しようということではありません。

 

結局それも、苦手であるということを認めていないことと同じではないでしょうか。

 

そうではなく、自分のなかの苦手意識の存在を認めるのです。

 

認め、気づき続けた苦手意識。

 

それはつまり、あなたの心に苦手意識の居場所を作るということ。

 

これを忍耐強く続けることで、本当に少しずつですが、あなたと苦手意識との間にスペースができるでしょう。

 

そのときこそ、あなたの「苦手の超越」が始まるのです。

 

hamamon91.hatenablog.com

 

追記

 

しかし、あなたの強い恐怖に基づく苦手意識は、存在を認めることすら困難かもしれません。

 

焦る必要はありません。

 

決して自分に、無理にその存在を認めさせようとしないことです。

 

今は「その恐怖が受け入れられない」ということを認めればいい。

 

何もその苦手なものと接している時間だけがあなたの生活のすべてではないはずです。

 

または、その苦手なものと接触しなくても生活する方法があるかもしれません。

 

今は、その苦手なものとなるべく触れることなく、自分にできることをやる。

 

そのうちに少しずつ、苦手意識の存在が許せるようになるでしょう。

 

あなたのペースでやればいいのです。

 

苦手は苦手なままでいい

あなたは「苦手を克服することが美徳」と教わり、それを信じてきたかもしれません。

 

そこで、「苦手なものなどあってはいけない」と考えて、嫌がる自分に無理に苦手なことをさせ続けたかもしれません。

 

にもかかわらず、いっこうにその苦手意識が薄れる手ごたえがない。

 

そんな自分を責め、ますます苦手克服のための苦行を自分に課してきたかもしれません。

 

もし、そんな悪循環に疲れ果てたのなら、そろそろ僕たちは、「苦手をなくそうとすること」をやめてもいいのかもしれません。

 

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「ムラ」を嫌う日本

 

時代は変わってきつつあるとはいえ、日本と言う国は「ムラ」があることを嫌う傾向があると僕は感じます。

 

僕が子どもの頃は、学校教育において苦手な教科があることを諫められたものでした。

 

教師が生徒の成績を1~5の5段階で評価する(高いほど「良い」とされる)のですが、いくら「5」の科目があっても、「2」以下の科目があると、それを正すよう指導された記憶があります。

 

「得意な科目を伸ばす」ことではなく、「苦手な科目をなくす」ことに注目しているということでしょう。

 

また、心理読み物などを読むと、誰とでも親密にすることが「良いこと」であるかのように感じるかもしれません。

 

だから、「苦手な人などいてはいけない」

 

そのように解釈をしてしまうかもしれません。

 

こうした背景があってかどうかは知りませんが、僕たちは苦手意識を持つことそのものに対して、罪悪感を抱きがちなのかもしれません。

 

苦手克服という名の戦い

 

そろそろ僕たちは気づいてもいいのかもしれません。

 

この「苦手をなくそうとする」考えへの妄信が、自分自身との戦いを助長する側面も持っているということを。

 

苦手克服というと耳障りのいい言葉だと思うかもしれませんが、自分への優しさという面から観ると、果たして本当に手放しで称賛されるものでしょうか。

 

なぜ苦手が苦手なままであってはいけないのでしょうか。

 

ゴキブリが苦手で何がいけないのでしょうか。

怒りっぽい人が苦手で何がいけないのでしょうか。

営業の仕事が苦手で何がいけないのでしょうか。

家事が苦手で何がいけないのでしょうか。

対人関係が苦手で何がいけないのでしょうか。

 

「苦手なものはあってはいけない」

 

この考えがいかに我々を窮屈にし、場合によっては八方ふさがりにしているのか。

 

そうした面にも目を向けてもいいのではないでしょうか。

 

人類全体でみた分担

 

先ほども申し上げたように、時代は変わりつつあります。

 

インターネットの発達とともに、人類全体で見た役割分担というものが少しずつ可能になってきています。

 

(これは非常に大きい話であり、僕だけでなく色々な方がこのことについて説明していますので、ここでは詳細は割愛します。)

 

苦手なものはそれができる人に任せ、自分は得意なこと、もしくは自分にできることで貢献していく。

 

本当に少しずつではありますが、そうした生き方が容認されてきていますし、実践している方もいらっしゃいます。

 

お金は、自分が苦手なことを代わりにやっていただくために使う。

 

たとえば、家事がどうしても苦手な人は、家事代行サービスに依頼する。

 

そうした考え方も芽生えてきているように感じます。

 

もちろん僕は、そうした生き方だけが正解だとは思いません。

 

しかし、選択肢としてそういう方法もあるということは、知っておいてもいいのかもしれません。

 

苦手克服と言う名のもとに、自分との戦いに明け暮れる必要はないということです。

 

苦手を苦手と認める

 

とはいえ、向上心の高いあなたはこう懸念するかもしれません。

 

「それなら苦手なものは一生苦手なままではないか」

 

不思議なもので、「あるがまま」を認めて気づき続けると、それは自然に変容していくものなのです。

 

だから、苦手なものを苦手であると認めて気づき続けるなら、その苦手意識は真に必要がなくなったときに、少しずつ解消していくはずです。

 

逆に言うなら、その苦手意識があるうちは、あなたにとってそれは、むしろ心の健康を保つうえで必要なものなのかもしれません。

 

それを力づくで変えようとするから、苦しみは増幅するのかもしれません。

 

中には気づき続けても解消されない苦手意識というものも存在するかもしれません。

 

たしかに苦手なものはないにこしたことはありません。

 

が、僕たちも人間です。

 

一生苦手なままのものだって、あってもいいのではないでしょうか。

 

苦手なものをなくそうとするのではなく、苦手なままでもそれとどう関わっていくか。

 

それが大切ではないかと僕は思うのです。

 

(もちろん苦手なものに立ち向かうだけが関わり方ではないということは、重ねてお伝えしたいと思います。)

 hamamon91.hatenablog.com

 

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エゴ

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あなたは、セラピストやスピリチュアリストが書いた文章などを読んでいて、あまりにも人格が「できすぎている」ように感じて、かえって苦しくなったことはありませんか。

 

心が健全であるには、この人たちのように・・・

人を憎んではいけない。

人を羨んではいけない。

いかなる人も愛さなければならない。

 

そして、そのように振舞えない自分を責めてしまったことはないでしょうか。

 

僕もそうだったことがあるので、とても気持ちがわかります。

 

美しい部分だけが人間ではない

 

しかし、僕はあなたにはっきりと言います。

 

僕はブログでこんな「知ったふうなこと」を語らせていただいていますが、僕の心にもしっかりエゴは存在しています。

 

自分に都合がいいものには理屈をつけて飛びつくことだってあるし、自己防衛に労力を割くことだってある。

 

批判されれば不快になるし、そんな相手を恨みたくもなる。

 

自分に与えられていないものに羨望の目を向け、人の境遇を妬むことだってあります。

 

※もちろん、クライアント様に対してそのような態度を取ることはありませんのでご安心を(笑)

 

今わざわざこんなことを言うのは、自虐でも、あなたをがっかりさせるためでもありません。

 

むしろその逆です。

 

僕自身、心のことを語るセラピストのはしくれであると自覚していますが、そんな人間もまた、みんなと同じ「ただの人間」なのだと知っていただきたいのです。

 

ことさらに美しい言葉で飾り立てたものだけが人間のすべてではない。

 

そのことをちゃんと受け入れていただきたいからです。

 

だから、残念かもしれませんが、あなたの心にもきっとエゴはあるに違いありません。

 

美しいものしか認めないなら、それこそ愛ではありません。

 

たとえ醜いと感じる部分があったとしても、そしてそれが嫌いであったとしても、それも含めて人間なのだ。

 

そことしっかり向き合っていただきたいのです。

 

美化するということは、ものごとに過剰な意味を付与しているという点で、貶めることと表裏一体ではないでしょうか。

 

だから僕は、綺麗事で人間の本質をごまかしたような言葉には感動をおぼえませんし、見聞きしても嘘くさく感じるのです。

 

みんな心にエゴはある

 

僕たちは少しずつ認めてもいいのかもしれません。

 

ブッダのような「悟った」といわれる人はどうか知りませんが、だいたいみんな、大なり小なり心にエゴはあるのだと。

 

あなたが尊敬する人だってきっとそうに違いありません。

 

ならばあなただって、あなたが嫌いなあの人にだってあって当然です。

 

それを特別なことと思う必要はないのではないでしょうか。

 

僕たちは聖人君子になんてならなくていいのです。

 

エゴの心がありながらも、それらとの関係を試行錯誤しながら、自分なりに誠実に生きていく。

 

目の前のものごとをおろそかにして、エゴを消し去ろうと自分の心と格闘するより、そのほうがよほど建設的な生き方ではないでしょうか。

 

もしくは自分の心にエゴなどないかのように語り、立派な言葉でものごとを飾ろうとするより、そのほうがよほど美しい生き方ではないでしょうか。

 

エゴを憎んで敵視しているうちは、エゴに支配されているのかもしれません。

 

しかし、誰しも心にエゴがあるという事実を徹底的に認め、エゴと戦うことを手放したとき。

 

そして、エゴをエゴだと気づき続けたとき。

 

あなたは少しずつエゴの支配から脱することでしょう。

 

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2021年もよろしくお願いします。

2021年が始まりました。

 

皆様にとって望ましい1年であることを祈ります。

 

2019年3月に開設した当ブログも、おかげさまで2度目の元旦を迎えることができました。

 

こうして続けられるのもひとえに、記事を読んでくださる皆様のおかげであると感じております。

 

今年も僕は、周囲と協調をしながらも、我が道を進みます。

 

現代社会に生きづらさを感じるあなたが「真のあなた自身」でいられるよう、ご支援をしていけたら幸いです。

 

それでは2021年もよろしくお願いします。

 

超越とは「どうでもいい」ということ

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マインドフルネスによって自分の心と健全に関わっていく過程を一言で表すなら、それは「思考を超越する」ということです。

 

もしかするとこれは、マインドフルネスだけでなく、様々な心理ワークや、いわゆるスピリチュアルといわれるもののワークに共通したことなのかもしれません。

 

近年の心理学において、「メタ認知」という言葉を聞いたことはおありでしょうか。

 

この「メタ認知」もまた、思考の超越の一種だといえるかもしれません。

 

では、思考の超越とは何でしょうか。

 

非常に高尚な道徳的概念を身につけることでしょうか。

 

もしくは、思考をストップさせようとすることでしょうか。

 

それとも、決してものごとにうろたえない・動じない強靭な心を築き上げることでしょうか。

 

僕はどれもまったく違うと思います。

 

前者は思考を超越しているどころか、思考に依存しているといえるかもしれませんし、後者2つはもはや超人を目指す「悟りゲーム」に興じているといえるかもしれません。

 

もちろんその方法が自分に適していると感じるなら、選択していただいてもいいと思います。

 

しかし、真の自分自身として生きていくことを選ぶのなら、僕はそれらをお勧めしません。

 

「思考の超越」= 真の「どうでもいい」

 

思考の超越とは、語弊を恐れずに言うなら、「どうでもいい」という心境に近いかもしれません。

 

ここで言う「どうでもいい」とは、世間一般で使用される「どうでもいい」とはまるで違います。

 

よく言われる「どうでもいい」とは、思わしくない結果となったものごとを毛嫌いして無関心を装ったり、それに対して復讐的な行動をしようとすることではないでしょうか。

 

例えば、意中の人に振られてしまった。

 

「もうあんな人はどうでもいい」

 

そう考えて、以後は出会っても完全に無視し、目すら合わせようとしない。

 

これは、「どうでもいい」どころか、強い嫌悪の現れではないでしょうか。

 

関心があるという点においては、好意があることと同じではないでしょうか。

 

そう考えるなら、この「どうでもいい」は、まったく「どうでもよくない」といえるのではないでしょうか。

 

真の「どうでもいい」は、本当に「どうでもいい」のです。

 

好き嫌いなどの関心すらも超越しているのです。

 

これは「嫌いになってはいけない」とか、「好きなふりをしなさい」ということとはまったく違います。

 

嫌いなら嫌いでいいのです。

 

「自分はこれが嫌いなのだ」

 

ただそれだけなのです。

 

好きであろうと嫌いであろうと、それすらもどうでもいいのです。

 

心の客観視こそ思考の超越のはじまり

 

しかしここで注意していただきたいことがあります。

 

それは、「思考を超越しよう」と努力する必要はないということです。

 

なぜなら、その「思考を超越しよう」という考えこそが思考だからです。

 

「思考を超越しよう」とむやみに努力をすると、おそらくものごとに対して無関心を装うことになるでしょう。

 

これもまた、ある種の心の抑圧ではないでしょうか。

 

ならば、「思考を超越」するにはどうすればいいのでしょうか。

 

究極的には、何もしないことです。

 

ただ忍耐強く自分の心を観察し続けるのです。

 

するとあなたは少しずつ、思考というものが自分とは別の生き物であると気づくことでしょう。

 

そのときこそ、「思考の超越」のはじまりなのです。

 

瞑想の真価【持論】

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「瞑想で無になる」

「瞑想で雑念が消える」

 

そのようなお触書を目にされた方はいらっしゃるかもしれません。

 

そして、そのような神秘的な状態に憧れるかもしれません。

 

人それぞれ何を目指すかは自由ですから、もちろんそれもいいと思います。

 

しかし、突き放したような言い方で申し訳ないのですが、その期待はおそらく大抵は外れることになるでしょう。

 

たしかに僕もときおり、頭がすっきりして余計な考えが湧かず、「無になった」かのように感じることもあります。

 

それは非常に心地のいいものです。

 

ですがそれは、結果的にそうだったというだけで、求めるようなものではないし、ましてや瞑想の本質的な部分ではないと僕は思っています。

 

瞑想で大切なことは、考えが起こるかどうかではない。

 

僕はそう思っています。

 

それはきっと、僕たちのコントロールを超えています。

 

瞑想が熟練していようと、考えは起こるときに勝手に起こるのではないでしょうか。

 

考えが起こったとしても、それを押し殺すことなく受け流すこと。

 

そして、それと距離を取ること。

 

そのような注意の向け方を鍛錬することが、瞑想において重要なのではないでしょうか。

 

この鍛錬により、僕たちは自分の心を客観視できるようになるのです。

 

(もちろん、失敗するときもしょっちゅうあります。)

 

そして、忍耐強く自分の心を観察し続けることによって、洞察や自己理解が深まるのです。

 

ひいてはこれが、僕たちの意識の変容につながるのです。

 

この意識の変容は、僕たちの生き方や世界との関わり方を大きく変える可能性も秘めています。

 

これこそが、僕が瞑想に感じる真価なのです。

 

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