「本質」で生きるマインドフルネス

「別人」を目指さなくていい。そのままのあなたで自由に生きればいいのだ。

「存在」こそ私たちの正体

私たちは何者だろうか。


私たちの正体は何だろうか。





体だろうか?


心だろうか?


私たちの名前だろうか?




それとも、私たちに付いた肩書だろうか?


私たちが成し遂げた業績だろうか?


周囲の人たちが、私たちに抱く人物イメージだろうか?





私たちの正体は何か?


恐らくこの問いに対して、科学的に証明した解答を得ることはできないだろう。


しかし僕は、これまでの人生経験とマインドフルネスの洞察で、ひとつの仮説を信じるに至った。





私たちの正体は、私たちの「存在」だ。


「存在」こそ、私たちの正体なのだ。





だから僕は思う。


肩書も、


業績も、


所有資産も、


たしかに関心事かもしれない。





しかし、それらは私たちの「存在」の前には、ほんのオマケに過ぎないと。


私たちの「存在」こそ尊いのだと。





これを綺麗事だと思うならそれでいい。


そう感じる人がいても、何も不思議ではない。


これは真理ではなく、僕の経験から得られた信念だから。





人それぞれ歩んできた歴史は違う。


だから、人それぞれ信じるものも違って当然だろう。


あなたはあなたの感じるままを信じればよいのだ。




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感じないものを「感じない」と認めること

先日、ある人とお話をして、はっと気づくことがありました。

その方はかつて、摂食障害があったとのことで、以前は味覚を感じられなかったとか。

食べてもおいしいとも不味いとも感じなかったそうです。


僕は生まれてからずっと食欲旺盛で、味覚を感じないという状態になったことはないのですが、恐らく本人も辛かっただろうと想像します。

実は僕も、味覚ではないのですが、「感じない」ことで苦しんでいた経験があります。

詳細はちょっとここでは語れませんが(笑)



このブログでは、快を快と、不快を不快と認めること、つまり「感じるままを認めること」の大切さはよくお伝えしていました。

しかし、そのように「感じる」ことができなくて苦しんでいる人もいるのだということを忘れていたようです。

ここでひとつ、「感じない」方のために付け加えたいと思います。



それは、感じないものを「感じない」と認めることも、同じように重要だということです。

なぜかといいますと、これは僕の経験則でもありますし、さきほどの摂食障害を経験された方も言っておられたのですが、「感じる」ためにはリラックスが必要ではないかと思うのです。

もしそこに、「私はこれを感じて当然だ。」という思い込みがあれば、「感じない」ことに対して「感じなければ」というプレッシャーが起こるでしょう。

すると、ますますリラックスが難しくなり、感じにくくなってしまいます。



果たして本当に、「感じない」ことは異常なのでしょうか。

みんながみんな、同じ刺激に対して同じように感じられて当たり前なのでしょうか。


実際のところ、「感じ方」というのは人によって千差万別ではないでしょうか。

もちろんそのときの心身の調子に左右されることもあるでしょう。

つまり、「感じ方」に正解はなく、あなたの「感じ方」は、そのときのあなたにとっての事実なのです。

ほかの人が「感じる」ことでも、自分には「感じない」ということは、十分あり得ることです。

実は「こう感じるべき」という感覚はないのです。



だから、もし何も感じないのであれば、まずは「感じない」ということを認めてみてはどうでしょうか。

もちろんここで様々な思考や感情が起こるのも無理はないと思います。

なぜ自分はこれが感じられないのだと焦ることもあるでしょう。

でもそれでいいのです。

その思考や感情が起こることもまた、今のあなたにとっての事実なのです。

それを押し殺す必要はないのです。



ある程度抵抗なく、感じないものを「感じない」と認められるようになると、「感じない」ことに対して、それほど否定的な思いはなくなるかもしれません。

もしくは、少しずつそれが感じられるようになるかもしれません。



ジョン・カバットジン博士が提唱する「マインドフルネスストレス低減法」において、「ボディスキャン」というワークが、まさにこの練習にうってつけでしょう。

つまり、あなたのあるがままの「感じ方」を認めるためのトレーニングといえます。

「感じない」ことで悩んでいない場合でも、リラックスすることが苦手という人には有効だと思います。

忍耐強く行えば、あなたの感受性は磨かれることでしょう。


マインドフルネスストレス低減法

マインドフルネスストレス低減法

チャクラワーク in 岐阜ヨガの家

先日、「岐阜ヨガの家」でチャクラワークを受講しました。

僕は関西に在住しているのですが、以前から何かと縁がある岐阜県で、これまた縁があって、チャクラについて学ばせていただく運びとなりました。

僕は岐阜に招かれているのか!?



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はるばる(とも思わないが)岐阜へ到着〜


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岐阜駅前の広場には黄金の信長公像がある!



さて、皆さんはチャクラをご存知でしょうか。

ここで簡単に説明しますと・・・

チャクラとは、ヨガなどで見られる東洋的な生命概念で、僕たちの体に存在すると言われるエネルギーセンターです。

その数は全部で数百から数千と、諸説あるようです。

主要なものは体の脊柱線に沿って、会陰から頭頂部まで7つあると言われています。

(これも、6つや8つなど諸説あるようです。)

一般的にチャクラと言われるものは、この主要な7つのチャクラを指しています。

しかし、エネルギーセンターとはいっても、心身の調子だけに影響するものではなく、そこから副次的に人生全体のバランスに関わってくるもののようです。

まあ何と言いますか、言葉だけでは表しづらい奥深さや曖昧さがあり、このあたりが神秘的であり、また、人によっては受け入れがたいところなのでしょう。




チャクラは東洋医学の氣などと同様、広く認知はされているものの、科学的には証明されていません。

しかし、最近ではクリスティン・ペイジ氏のように、西洋医学の医師の中にも、チャクラの概念を採り入れている方がいるようです。

また、近年の医療の流れとして、西洋医学東洋医学を融合し、人間を人体というパーツとしてではなく、体・心・氣等の総合体として捉える「ホリスティック医学」が注目されるようになりました。


チャクラ――治癒力の目覚め

チャクラ――治癒力の目覚め



僕も、自身の経験から、ホリスティックな健康観や生命観に立って健康管理をするようになりました。

と言いますのも・・・

僕は長らく、西洋医学では原因の分からない倦怠感や疲労感等の不調に苦しんでいました。

原因は何だろうと検査を受けても、数値的には全く異常がない健康体でした。

そして、食事・運動・睡眠等の生活習慣を整えても、それらは改善することはありませんでした。

そうしたことから、西洋医学のみによる健康維持に限界を感じ、健康を考えていくうえで東洋医学的なアプローチも必要ではないかと思うようになったのです。



僕は以前から、チャクラというものに興味がありました。

しかし、その存在には半信半疑でした。

マインドフルネス瞑想を実践するようになり、気づきが深まるにつれ、「これはチャクラかな?」と思うものを感じるようになりました。

また、瞑想によって自身の不調や生きづらさが和らぐとともに、その過程で神秘的な体験もしました。

僕は、科学的に証明されていないものの中にも、真実は多くあるに違いないと確信しました。

チャクラはあるのではないか。

そして、これを学べば健康について、いや、生命についてもっと深く理解できるだろう。

そう感じたのです。

こうした経緯から、チャクラワークを受講することとなったのです。



長くなりました。

本題に移りましょう。

このワークは第1チャクラから第4チャクラまで、各チャクラについて1回ずつ受講します。

各回について、受講後は約3週間の宿題があります。

この宿題までこなせば、無事修了というわけです。

実は第1チャクラは昨年の11月に受講・12月に修了済です。

第1チャクラを修了した時点で、体の中で停滞していたエネルギーが循環したような、自分の中に今まで感じたことのないようなパワフルさを感じる機会が出てくるようになりました。

もちろん、チャクラワークも魔法ではないでしょう。

僕の場合、日頃から自分で取り組んでいるマインドフルネスとの相乗効果で、このような結果になったのかもしれません。



そして、今回は第2チャクラの受講です。

西川朋子先生の指導のもと、約4時間半じっくりと学びました。

第2チャクラは主に感情を司るチャクラです。

体のワークは、骨盤を自由に動かすワークと、月礼拝です。

実は、ここに来る3日ほど前に、ユーチューブの動画を見ながらヨガの月礼拝のポーズをやろうとしていたのです。

しかし、動画の展開が早すぎて、ついていけませんでした。

だから、月礼拝のポーズを教えてもらいたいと思っていたのです。

シンクロニシティでしょうか。

第1チャクラがどっしり力強く、直線的な動きだったのに対し、第2チャクラは柔軟で曲線的な印象です。

心のワークは、感情観察です。

自分の感情を観察し、そのまま感じてみるというものです。

これは、僕が普段からマインドフルネスの実践で行っているものとほぼ同じ内容です。

心の抵抗によってそれ以上感じることができなかった感情を、観察することで恐怖を解きほぐし、少しずつ感じられるようになっていくことを目指します。

つまり、心の抵抗を少しずつ外し、その可動域を拡げていくということでしょうか。

第2チャクラのワークは心身ともに、柔軟性がキーワードなのだと感じました。



今回も3週間の宿題をいただきました。

楽しく励みたいと思います。

西川先生、長時間のご指導、ありがとうございました。



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岐阜ヨガの家のブログ
https://ameblo.jp/yogajupiter/

調子には波があって当然

昨日できたことが、なぜか今日はできない。

そんなことはよくあるのではないでしょうか。

そんなとき、私たちの多くは恐らく、なぜできないんだと嫌な気分になるのではないでしょうか。

そして、できない自分が受け入れられない人もいるかもしれません。



「以前できたことは、今もできて当然だ。」

そういった思い込みを持っている方は多くいらっしゃるのではないでしょうか。



しかし、実際のところはどうでしょうか。

私たちの気分や行動は、そのときの調子や状況など、様々な要因の影響を受けます。

そして、以前と今とでは、何寸分なく同じ状態など、実際にはないと言っていいのではないでしょうか。



仮に昨日と同じ場所で、同じ時刻に、同じことを同じメンバーで行ったとしても、各人の調子はもちろんのこと、気温・湿度・気圧・風速・天体の配置など、様々な状況は今と異なっているはずです。

つまり、以前と今は全く違うものなのです。

今このときと全く同じ状況など存在しないのです。

以前のあなたと今のあなたは、全く違う状態のもとでそれを行うのです。

だから、以前できたことが今はできないということは、十分にあり得ることだと言えるでしょう。



しかし、ことメンタルの状態に関しては、常にフラットに保てると考えている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

巷の心理読み物などを読むと、そのように感じても無理はないかと思います。



心は常にポジティブに保てる。

いつでも冷静でいられる。

心とはそうあるべきだ。

・・・そのように信じている人もいるかもしれません。




しかし、実際のところはどうでしょう。

好調なときは、いい気分やポジティブな思考になりやすいかと思います。

一方、不調のときは、特に差し迫った問題がなくても憂鬱な気分になったり、普段気にならないようなことに対して悲しくなったり腹立たしくなったりするかもしれません。

しかし、それでいいのだと僕は思っています。

それが心の自然な動きではないかと思うのです。



僕は「常にフラットな心」が絶対に無理とまで言い切るつもりはありません。

そのような境地に達することを生きがいとし、修行を重ねている人もいると思います。

本心からそうなりたい人は、大いに目指せばいいと思います。



しかし、そのような境地に達しないと心の平穏が訪れないのではないかと恐怖に囚われてしまっているのなら、僕はあなたに言うでしょう。

そんな幻想は手放してしまっていい。

そんな状態にならなくても十分、心身とも健康に生きていくことができるはずです。



メンタルが不調になると、つい不安になり、心そのものをどうにかコントロールしようとしてしまうかもしれません。

もちろんそれも、ひとつの方法かもしれません。

しかし、僕はそれよりも、そうした心の動きがある中で、それらに囚われずにどのように行動するか。

そのほうが重要ではないかと思うのです。




生命はリズムのなかで流れ、動いています。

調子には波があって当然なのです。

もちろん、鬱や極度の疲労などの状態異常があれば、平常時に比べて波の上限と下限の差が激しくなったり、波の間隔が短くなるなど、その波形が乱れることはあるかと思います。

しかし、健康な状態であっても、不調の波は訪れるものです。

それが自然の摂理というものではないでしょうか。

だから、以前できたことが今はできないということがあったら、嫌な気持ちになることも含めて、そうなることはやむを得ないのだと認めてしまったほうが楽だと僕は思います。



好調であれば幸せ。

不調であれば不幸。

そう感じることもあるかもしれません。

しかし僕は強く思います。

好・不調と僕たちの幸福とは別問題ではないかと。

依存を減らす

現代で自由に生きていくためには、依存を減らしていく姿勢が必要であろう。



ここでいう依存とは、人の力を借りないことではない。

むしろ自分が困っているときに必要な支援を依頼することは、自律的な態度であるといえるだろう。

ここでは、自分の期待を押し付ける態度の全般を依存と呼ぶこととする。



人が自分の思ったとおりに動かなかったときに不満を感じること。

これも依存である。

レストランで注文した料理が出てくるのが遅いからと、腹を立ててウェイターに文句を言うこと。

これも依存である。




自分の期待が正しいとか理にかなっているとかいうことは、ここでは問題にしていない。

どんな期待であれ、それを相手に押し付けること。

それが依存なのだと、僕は思っている。




しかしここでご注意いただきたい。

僕は依存が悪だと言うつもりはない。

恐らくそれは、人間の性なのだと僕は思う。

依存を減らすことはできても、完全になくすことはできないだろうということだ。

どんなに自立した人であっても、やはり多少は何かに期待し、甘えてしまうこともあるだろう。



さきほどのレストランを例に取ってみよう。

この客が、料理が出てくるのが遅いと感じたことは真実だろう。

だから、早く料理を出してくれるよう依頼することは適切な処置であるといえる。

ただ、文句を言う必要が本当にあるのだろうか。

大抵の店は、苦言を呈さなくても、事情を話して依頼をすれば、それに対して応えようと尽力するのではないだろうか。




現代においては過剰な依存が人を不自由にしているといると僕は思う。

だから、依存を減らすことが大切だと感じるのだ。

他者が依存するかどうかはこちらにはコントロールはできないが、自分が依存を減らすことはできるかもしれない。

依存を減らしたいなら、依存してはいけないと考えるのではなく、自分が依存をしていることに気づくことが大切だろう。

つまり、何かに期待している自分に気づき続けることだ。




自分の期待に応えるかどうかで人をジャッジすることをやめると、人の言動に腹を立てる機会は自然と減ることだろう。

もちろんこれは一朝一夕にできるようなことではない。

しかし、忍耐強く気づき続けることで、あなたは自由へと近づいていくだろう。

素直であること

素直であることは、心身の健康上望ましい状態である。

ここでいう素直とは、人の言動に対して従順であることではない。

自分の感情をできるだけそのまま認めることである。



つまり、快なものは快、不快なものは不快、どちらでもないものはどちらでもないと認めることである。

自分にとって都合が悪い感情であっても、できる限り違う感情に置き換えないことだ。

そして、できればその大きさも変えようとしないほうがいい。

なるべく、払いのけようとしたり、無理に大きくしようとしたり、感じないようにしないことだ。

しかし、どうかむやみな努力はしないでいただきたい。



自分の感情に評価を加えず観察し続ける。

評価をしたときは、評価をしたことに気づき、また観察を続ける。

忍耐強く、少しずつ。



するとあなたは気づくだろう。

自分の感情のとおりに行動する必要も、自分の感情をあるべき状態に変えようとする必要もないということを。

今、同調したくない感情が現れたら、それらを抑えることなく、自分の脇に流せるということを。

これが素直になるということだと、僕は思っている。

批判は汚物だ

あなたは人から批判されても、平常心でいられるだろうか。

僕はやはり、批判をされることはとても嫌だ。



よくポジティブシンキングなどで、人の批判は自分が改善できるチャンスなので、ありがたく頂戴しようというような考えがある。

たしかに心からそう思えたら、建設的に人と関われるだろうと思う。




しかし、僕はそんなに「いい奴」にはなれそうもない。

批判する人を苦々しく思うし、強く批判されると逃げ出したくなる。

とても、「貴重な意見を下さりありがとうございます。」なんて思えそうもない。

口だけなら言えるかもしれない。

しかし、本心からそう言うことは、今の僕にはできそうもない。



だから、僕はこう考えている。



「批判は汚物だ」と。



日常生活において、誰でも体から汚物を排出することだろう。

だから、汚物自体は何も問題はない。

汚物を排出することは自然の摂理であり、責めに帰するようなことでもないだろう。



しかし、どこでも所構わず汚物を垂れ流したらどうだろう。

周りの人々は不快になって当然ではないだろうか。

批判ばかりしている人は、そういう行動を取っているのだと僕は捉えている。

自分の心の中というトイレだけでなく、公衆の面前で汚物を垂れ流し、あまつさえ、相手に汚物を塗りつけようとする。

もちろん批判は汚物だというたとえは僕の脳内世界のものなので、恐らくそういう人の大半は、自分の批判が汚物だとは思っていないだろうが。




では、そういう批判ばかりしている人に対し、どう接すればいいのだろうか。

復讐としてこちらも相手を批判すればいいだろうか。

それとも、あなたがその批判を真摯に受け取り、今後は批判を受けないように注意するのがいいだろうか。



模範解答のひとつとして、次のようなことが考えられる。

批判のうち、自分の行動を改善できる要素があれば、今後に活かす。

それが単なる感情的な暴言であれば、聞き流す。




たしかにこのように対処できたら、大抵の人間関係は円滑になりそうだ。

できそうなら、そうしてみるのもいいかもしれない。

しかし、そんな絵に描いたような理想的な対応が誰にでもできるなら、苦労はしないだろうと僕は思う。



僕は、一番大切なのは、その批判をいちいち受け取らないことだと思う。

わざわざあなたが汚物をもらってあげる必要はないのだ。

なるべく汚物に注目しない。

そうした姿勢が重要になる。




それでもやはり、批判に恐怖を感じ、批判そのものを避けたいという人もいるかと思う。

とてもよく分かる。

僕もそうだから。

でも批判そのものを避けてばかりいると、本当に自分がやりたいことをやる機会も逃すかもしれない。

だから自己啓発本などではよく、「批判を恐れるな」ということが言われるのだろう。




しかし、「批判を恐れない境地」に達するのはなかなか難しいのではないだろうか。

結果、批判を恐れてはいけないと考え、恐怖心を押し殺してますます苦しくなってしまうのだ。




それなら、批判を不快に感じることを、自分に許すところから始めてみてはどうだろうか。

不快に感じても当然なのだ。

だって、汚物なんだから。

だから批判に恐怖を感じていいのだ。

逃げ出したくて当然なのだ。




しかし、いくら汚物が不快でも、汚物を垂れ流す相手を正そうとしないことをおすすめする。

なぜなら、その試みはほとんどの場合において、好ましい結果は産まないだろうから。

あなたがどんなに理にかなった説得を試みたとしても、その人は恐らく行動を省みるどころか、あなたの説得に耳すら貸さないだろう。

それどころか、相手はさらに悪臭を放つ汚物をあなたに投げつけるかもしれない。




もし勇気があるなら、私はあなたの言葉で傷ついているのだということぐらいは伝えてもいいかもしれない。

しかし、そこで留めておいたほうがいいと僕は思う。

相手をコントロールしようとしないことをおすすめする。




そもそもあなたが自分が正しいと思って相手を咎めた時点で、あなたもまた、相手に汚物をなすりつけることになるのではないだろうか。

汚物と汚物のなすりつけ合いという不毛な争いは、なるべく避けたほうがいいのではないかと思う。

相手と同じ土俵に立たないことだ。




じゃあ僕らはどんなに怒りを感じても、批判という汚物を出さないほうがいいのだろうか。

批判したい衝動に駆られても、それを我慢したほうがいいのか。




僕は、排泄を我慢することは心身に有害であると思っている。

体から怒りという毒素を出すためにも、汚物は排出してしまったほうがいいのではないだろうか。




しかし、どこにでも垂れ流すわけではない。

自分の心の中というトイレや誰も見ていない部屋で、人知れず排出すればいいのだ。

もしくは、一人では処理しきれないときは、あなたの排泄物さえも受け入れてくれるような人、家族であったり親友であったり恋人であったり、そんな親密な人たちに話してみてはどうだろう。

そのときはなるべく、今日こんなことがあり、自分はこう感じたのだと、「私」を主語にした出来事として伝えるといいだろう。

すると、あなたの排泄物は、歴史的・客観的資料へと変身するだろう。

まるで遺跡で見つかった人糞の化石のように。