愛なき私を認めることが愛
Chapter1・私には愛がない
「私は愛を体現したい」
そのように願い、私はスピリチュアルなワークに取り組みました。
ヨーガもやりました。
仏教的な実践も行いました。
しかし、私には愛がありません。
本当です。
私は自分が気持ち良ければそれでよく、
利他や福祉の心はなく、
自分本位です。
私には愛がないのです。
以前はそのようなことは、とても受け入れられませんでした。
自分に愛がないなどということは、許されないことでした。
しかし、今はそんな自分も許容しています。
いえ。
許容するという言い方は、ちょっと違うかもしれません。
ここには能動的な意味合いは、まるでありません。
許容するというよりも、愛のない自分でもしょうがないかなというかんじです。
認めざるをえないというほうが、適切な言い方かもしれません。
ないものはない。
しょうがない。
Chapter2・私は器ではない
私には愛がありません。
仕方がないですが、本当です。
そこで偉大なる師は、私にこうおっしゃるかもしれません。
「ならば与えなさい」と。
師よ、すばらしいアドバイスをありがとうございます。
だけどそれもやめておきます。
私はキリストでもナイチンゲールでもありません。
ただの私です。
愛のない、器の小さい人間です。
愛のある人の真似は、したくはありません。
そういう努力は、やり尽くしました。
それでも私から、出し惜しみをする心が減じることはありませんでした。
そんな葛藤を乗り越えてまで、誰かに何かを与えようとする気は、私にはないのです。
それが私の器なのです。
そう。
私には愛がないのです。
ないものねだりは、もうしたくないのです。
Chapter3・私にあるのは愛欲
それでも愛に満ちたあなたは、こうおっしゃるかもしれません。
「そんなことはない、あなたにもきっと愛はある」と。
朋よ、優しい言葉をありがとうございます。
しかし、私には愛がないのです。
本当です。
私が「〇〇を愛している」と言うとき、
たしかに私は、愛によく似たものを表現しています。
しかし実のところ、私は愛していません。
愛しているふりはしているかもしれません。
大切にするそぶりは見せているかもしれません。
でもそれは、大切だから大切にしているのではありません。
見返りがほしいから、大切にしているのです。
見返りが得られないということがわかると、私は冷淡になります。
私はさもしい人間です。
このとき、私にあるのは愛ではありません。
愛欲です。
残念ですが、私には愛がないのです。
本当です。
Chapter4・愛なき私を認めることが愛
私はずっと、愛がないことを悪いことだと思ってきました。
だから愛を身につけようと努力していました。
しかし、私はそれが無理なことだと悟りました。
このように、自分には愛がないのだとただ認めるとき。
そして愛のある人間になることをあきらめたとき。
私は、愛のない自分でもそれなりに生きられていることに気づきます。
「まあこれでもいいかな」
けだるくもすがすがしい気持ちが湧いてきます。
すると、これまで私が下劣だとみなしてきた人々・・・
愛がなく、
愛欲にまみれ、
見返りばかり求める人々。
程度の差こそあれ、彼らと自分が、本質的には何ら変わりのないことを理解します。
「ああ、私も彼らと同じだ」
しかもそれは卑下でもなく、
愛に対する羨望でもなく、
ただ自分には愛がないのだという、それそのままの自覚です。
このとき私の内面では、愛のあるなしに対する関心が薄れており、
自分がことさらに特別な存在でもなければ、
劣った存在でもなく、
ただの愛なき一人であることを体感するのです。
そう。
実はこの脱力感こそ、私にとっての本当の愛だったのです。
これによって私の内にある人間不信は、ごくごくわずかに昨日より薄れているのです。
そして本当にちょっとだけ、
人に優しくしてやってもいいかなという気が起きてくるのです。
器の小さい私には、これぐらいの愛がちょうどいいのです。
だから私は今日も坐ります。
愛なき私のまま。