瞑想をしているとき、僕たちは自然と一体です。
自然はおそらく、区別も判断もしていないでしょう。
つまり、自然とは、思考から自由だということです。
ならば、自然はまったく無秩序かというと、それは違うと思います。
大自然にも大いなる意志があると感じるときはあります。
自然がそれそのままで美しく調和しているのは、やはり全体として何か法則性のような流れや動きを持っているからではないかと思うのです。
もし神や創造主と呼ばれるものが在るのなら(僕は在ってもいいと思っています。)、そうした働きを統べる何かなのかもしれません。
その大いなる意志による自然の営みは、我々人間が思考によって仕立てる小細工とは、まったく次元の違うものではないかと思うのです。
思考の小細工は意図的で、ときに非常に小賢しいものです。
たいてい、それらは自分たちに都合よくはからおうとします。
しかし、大自然の意志には、そのような小賢しさは見受けられません。
瞑想とは、思考の小細工から離れる時間なのです。
そのとき、僕たちもまた、連続的か断続的かは別として、思考から自由な瞬間を経験することでしょう。
つまり、その瞬間、僕たちは完全に自然の一部であるのです。
それは思考が止まるとか、思考が消えるということではありません。
もし思考を止めよう・消そうとするなら、それは思考の抑圧です。
それこそ小細工です。
僕たちは本当の意味で、思考によって思考を止めることはできないでしょう。
むしろ、瞑想は、動き続ける思考をなるべくそのままにするということです。
思考を自由にすることの中で、思考から自由になるのです。
そのとき、「私」という存在は、思考とは別のものであると気づくかもしれません。
では、そのように思考から自由になる瞬間を持ち、大自然と一体であるとき、僕たちにはどのような恩恵がもたらされるというのでしょうか。
もしかすると、あなたは大きな結果を望むかもしれません。
瞑想によって、劇的な変化があるのではないか。
神秘的で恍惚の気分になれるのではないか。
もしくは、何事にも動じない無の境地に至れるにちがいない。
たしかに、そのようになれる人もいるかもしれません。
が、そのような期待もまた、思考の小細工かもしれません。
瞑想がうまくできただろうか。
そうでないと、自然と一体になれないのではないだろうか。
あなたはそう思うかもしれません。
もちろん、うまくできたという手ごたえは快であるため、それを欲しがる気持ちはあって当然だと思います。
しかし、できた・できなかったという判断自体が思考ですから、それも自由にさせてあげたらよいのです。
できた・できなかったに関わらず、瞑想により坐していること自体が、すでに自然と一体なのです。
自然はそれそのままで美しいので、自分をことさらに美化しようとはしないでしょう。
だから何者かになろうともしないでしょう。
つまり、それそのままの自分でいられるということ。
それは、あるがままであるということ。
たとえ断続的な瞬間瞬間であったとしても、そうした自分を許容しているということ。
それが自然と一体であるということの恩恵なのではないでしょうか。