宝
それまで気にも留めていなかった。
庭に植わっているローズマリーに、心地よい香りがあることに気づいた。
その枝を3、4cmほど切ってみる。
そしてお湯に数分間浸し、お茶にして飲んでみる。
爽やかな香りと味が口内に広がる。
「うちの庭にもこんな宝があったのか。」
僕は再認識した。
あなたの宝
「自分には何も長所がないから、別人にならなければ。」
そう思って、外へ外へとないものねだりをしていた頃、僕は自分の内にある宝を宝と感じていなかった。
いや、その存在に見向きすらしていなかった。
「もっとスゴい人間になろう。」
どこかに違和感を感じながらも、成功哲学や自己啓発が定義するような成功こそが宝だと、むやみに信じていたのかもしれない。
そのような「達成ゲーム」への虚しさを徹底的に味わい、人生への抵抗を手放したとき、僕は自分にある本当の宝の存在に気づいた。
もちろん、ときには自分にはないものを体験したいと、外に目を向けることも有意義かもしれない。
しかし、それはそれとして、僕たちには既に与えられている宝があるはずだ。
あなたにもきっとある。
それをあなた自身が否定する必要はないだろう。
たとえ、あなたのその宝の存在に対して都合が悪いと感じている誰かが、「そんなものはゴミだ。」と否定したとしてもだ。
今は宝だと思えなくていい
だが、もし自分にあるものが宝だと思えないなら、今はそれでいいのではないだろうか。
今のあなたは、まだそれを宝だと感じていないのだろう。
それが今の「あるがまま」なのだろう。
だから、それまでも否定する必要はないだろう。
無理に自分にわからせようとする必要はない。
偽りの納得や、ことさらに飾り立てた肯定の言葉は、今は邪魔なものかもしれない。
前提を疑う
だけど、誰かが「これが宝だ。」と決めた定義に疑問を感じるのなら、その前提から疑ってみてもいいのではないだろうか。
自分にとって、それは本当に価値を感じることなのだろうか。
自分にとって、それは本当に大切なことなのだろうか。
その答えは出なくていい。
答えを求めなくていい。
ただ淡々と問い続ければいい。
わかろうとしなくても、そのうちに自然とわかるときが来るだろう。
あなたの宝はあなたが決めていいのだ。