本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

最終話・直さないといけないものは何もない

私は今日もまた、似たようなことを言っている。

 

ここで私が執筆できることは、だいたい書き尽くしたのかもしれない。

 

負け惜しみは、もうここいらでおしまいにしようか。

 

 

本当はただ気づくだけでよかった

 

私は、何も変わってはいなかった。

 

自己啓発によって正されたと思っていた、いい加減さ。

 

スピリチュアルな行によって消し去ったと思っていた、偏見、皮肉っぽさ、警戒心。

 

それらはまだ、私のなかにはっきりとあった。

 

無理に押し殺していただけだった。

 

そしてそれらは、ある一面においては慎重さやユーモア、癒やしでもあった。

 

本当は直さなくていいものだった。

 

本当は、ただ気づき続けるだけでよかった。

 

 

変えようとしないことも慈しみ

 

「すばらしい人間にならなければならない」

 

まるで完璧を目指せとでもいうように、

 

現代では、こうしたスローガンが飛び交っているのかもしれない。

 

私もまた、そのスローガンに従った一人だった。

 

だが、私はよくわかった。

 

そんなことは無理である。

 

どんなに自分を変えようとしても、

 

一足飛びで自分ではない理想的な何かになったりはしない。

 

どんなに神仏の真似事をしても、

 

対人恐怖症の私が、今ここで恐怖に動じない人間になったりはしない。

 

本当に大事なのは、変える・変えないではなく、

 

まずは今の、この臆病な自分をただ認めることだと思う。

 

たとえそれが、自分にとって残念な姿であったとしても。

 

残念だと感じている事実も含めて、私は認め続けるだろう。

 

本当に変わる必要があるのなら、そこから変わるだろうし、

 

変わらなくていいものならば、変えようとしても変わらないだろう。

 

どんなに頑張っても、私は私なりのことしかできないのだろう。

 

そして、それでいいのだと私は思う。

 

だってそれが自分なんだから。

 

むやみに変えようとしないことも、きっと自分への慈しみにちがいない。

 

「気づきはひとりでに私たちが知るべきものを教えてくれる」

 

「何かを起こそうと思わなくていい」

 

「行くべき場所も、するべきこともない」

 

ジョン・カバットジン先生のおっしゃったとおりだった。

 

私の半生は、それを理解する旅だったのかもしれない。

 

 

瞑想の本質の本質

 

ただそれをそのままに観るということ。

 

尽きるところ、瞑想とはそれだけではないだろうか。

 

そこからさまざまな発見がある。

 

だから瞑想は私にとって、オカルトではない。

 

事実の知覚である。

 

これ以上のリアルはないとすら思う。

 

そしてこの知覚こそが、自己理解の過程なのであろう。

 

自己理解なくして、他者の理解はできないと私は思う。

 

だから私は、この先も瞑想は続ける。

 

飽きっぽい私ではあるが、それだけは断言できる。

 

 

謝辞

 

私を自己解放へと導いてくださった、ジョン・カバットジン先生、

 

私に障害者認定への道を拓いてくださった、「西梅田こころとからだのクリニック」の故・西澤弘太郎院長先生、

 

私のあるがままを受け入れてくださった、T校長先生。

 

恩師の皆様には、感謝してもしきれません。

 

そして何よりも、

 

生前はその真意がわからずに、反発ばかりしていた私を、ずっと支え続けてくれていた父、

 

今そのままの私でいいのだと私が理解するまで、ずっと見守っていてくれた母。

 

当たり前のことですが、今の私があるのは、お二人のおかげです。

 

本当にありがとうございます。

 

また、このような珍奇でひねくれたブログにお付き合いくださった読者の皆様。

 

皆様の存在がなければ、5年間も続けられなかったはずです。

 

多大なる謝意を表明いたします。

 

瞑想のことで伝えたいことは、100分の1も書けませんでしたが、

 

私の人間性では、ここまでなのでしょう。

 

無念ですが、瞑想の伝道は、世にいる先生方にお任せします。

 

私は持ち場に戻り、

 

これまで見逃していた、まさに今ここにある美に目を向けつつ、

 

細々と自分の務めを果たします。

 

これをもちまして、当ブログの最後の記事とさせていただきます。

 

皆様の御多幸を願います。

 

どうぞお元気で。

 

 

本質で生きるマインドフルネス 完

 

5年間のご愛顧、ありがとうございました。