完成形の自分という幻想
完成形の自分を求めて、自分自身をいじくり回す。
どこかに理想の自分があるのではないか。
そしてそこにたどり着けるのではないか。
そこにたどり着いたなら、安楽が待っているにちがいない。
そのように努力を続ける。
しかし、どこまで行っても理想の自分になど届かない。
ひととき到達したと思っても、また新たな自分への不満を探し出し、自分を変えようともがく。
安楽どころか、心は苛立ちと焦りに染まっていく。
いったいこの修羅道はどこまで続くのか。
答えは単純明快だ。
あなたが自分を変えようとすることをやめたとき、このゲームは終わる。
それはこれまでとは違う努力を要する。
たとえ気持ち悪くても心もとなくても、自分を変えようとする心に応じないという姿勢が必要だ。
それを続けたとき。
あなたは少しずつ体感するだろう。
「自分はそのままでいいんだ」と。
そして、そのままでいいと認めたとき。
自分を変えようと努力しなくても、自分がおのずと望ましい方向に変容していくことに気づくだろう。
それは自分を好きになろうと努力することではない。
今の自分が好きであろうと嫌いであろうと、「これが今の自分なのだ」と認識し続けることで、結果的にそのように感じるようになるのだ。
そのための効果的なツールのひとつとして、瞑想がある。
もしあなたも完成形の自分を求めることに疲れ果てたのなら、ただ坐ってみてはどうだろうか。
そして、ただ自分の呼吸に意識を向けてみてはどうだろうか。
ただ自分の思考を観察してみてはどうだろうか。
何も変えようとせずに。
きっと、本当の意味で楽に生きるということがどういうことか気づくだろう。
完成形の自分という幻想を目指さないこと。
実はそれが、自分の本当のすばらしさを理解することにつながる。
皮肉なまでに逆説的な世界だ。
「まったく今までの努力は何だったんだ」
あなたはそのように憤りをおぼえるかもしれない。
もしくは、とてつもない無力感が押し寄せるかもしれない。
とても気持ちはわかる。
僕もそうだったから。
だから僕はあなたに次の事実を言う。
あなたの努力は決して無駄なんかではない。
そのころの努力があったからこそ、あなたはこのパラドックスが理解できるのだと。