ただ生きるということ ~日常のなかの喜びに気づく~
どんなに成功や勝利を重ねても、ユートピアになどたどり着かない。
このことを完全に理解したとき。
おのずと、努力をして何かを勝ち取ろうという気が消失する。
そして、ただ生きるために生きる。
理想
夢
信念
こうしたものを追求することをやめ、日々の生活を淡々ととり行う。
できないことを自分に無理にさせることをやめ、今の自分にできることだけをやる。
自分がやることに対していちいち目的など考えず、気持ちを込めずにただ行為する。
もしくは、疲れているときや休みたいときは、何もしない。
いつかそうなりたい自分にではなく、今ここにいる自分にだけ、そっと意識を置き続ける。
こうした日々を重ねる。
すると、不思議なことが起こる。
全然冴えない自分でも、心から「それでいいか」という気になる。
いつしか「それでいいか」は、「これがいいや」に変わっている。
今の自分をもっと良い自分に変えようなどという気が起こらなくなっている。
なぜなら、このようにただ生きるということは、本当の意味でとても楽だからだ。
このとき、心には模範とすべきものがない。
憧れの人もいない。
達成すべき目標もない。
生きるということ以外に人生の目的がない。
そして、それに満足している。
だから今の自分で何も問題がない。
これが楽でないはずがない。
こうした姿勢を現代の価値観では、怠惰とか無気力とか消極的とか呼ぶのかもしれない。
だからとても信じられないかもしれないし、信じなくていいのだが、
この姿勢で日々を送ると、生きることそのものの美しさが見えてくる。
そして、いつの間にか生活の一つひとつを丁寧に行っている自分がいることに気づく。
ここでいう丁寧とは、完璧にやろうとするとかきっちりやるとか、そんな表面的な意味ではない。
むしろそうしたうまくやるための丁寧さは、余計な窮屈さを生みかねない。
そうではなくて、丁寧とは、それをやっているときは、それだけしかしないということ。
ただそれに注意を払っているということ。
歩いているときは、ただ歩いている。
食べるときは、ただ食べている。
玄関を掃いているときは、ただ玄関を掃いている。
服を着ているときは、ただ服を着ている。
お茶を淹れているときは、ただお茶を淹れている。
全然うまくなんてできなくていい。
ただそれをやるだけでいい。
そこには、「何かができるようになるために」などという、二次的な目的がない。
純粋にただそれをしている。
そのとき、日々の暮らしは、目標達成のための通過点ではなく、それそのものが目的となる。
すると、衣食住などの日常には、奥深さやシンプルな楽しさがあることに気づく。
だから、非日常など求めなくなる。
刺激を探し求めてことさらにどこかへ行こうとする必要がなくなる。
そして、日々の暮らしそのもののすばらしさを感受することができる。
そのとき彼は理解する。
「何か目を引くような真新しいことやセンセーショナルなこと・・・そうした特別なことをしないと人生はつまらないと思っていたが、どうやらその考えは、まるで嘘だったようだ」と。
そう。
日常のなかにこそ、真の喜びがあふれている。
それもそのはず。
今ここにある、それそのものにのみ、美は存在するのだから。