本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

マインドフルであろうとしない


瞑想の先生は言います。

 

「マインドフルに生きよう」と。

 

私はその言葉を受け、マインドフルになろうとします。

 

注意を今ここに集中させようとします。

 

呼吸に意識を固定しようとします。

 

起きてほしくない思考に雑念というレッテルを貼り、排除しようとします。

 

頭をからっぽにしようとします。

 

自我を敵視し、撲滅を図ります。

 

このとき私は、マインドフルという言葉の定義をなぞらえようとしています。

 

常に心を、マインドフルという鋳型にはめようとしています。

 

私の心は、マインドフルであろうと緊張しています。

 

とんでもなく苦痛です。

 

しかし私は、我が心身に鞭を打って奮い立たせます。

 

「いつか私はマインドフルになるだろう」

 

そう信じて、これを続けます。

 

とうとう私に、高揚した恍惚が訪れます。

 

「これがマインドフルか!?」

 

私は歓喜します。

 

が、2、3日もすると、へとへとです。

 

どうやらこれは、私の願望を投影した幻だったようです。

 

やはり依然、私の心は激しい緊張に包まれています。

 

こんなことを繰り返します。

 

そして私は疲れ果てます。

 

「もういいや」

 

マインドフルであろうとすることをあきらめます。

 

注意を払おうとすることも、

 

集中しようとすることも、

 

雑念を捨てようとすることもやめてしまいます。

 

いえ。

 

やめたというよりも、

 

万策尽きてそうせざるを得ないというほうが、

 

表現としては適切でしょうか。

 

そしてただ坐り、そっと意識を置きます。

 

内面に起きてくることを、起きてくるままにします。

 

何も変えようとせず、ただ気づき続けます。

 

すると私は知ります。

 

自分がまるでマインドフルでないことを。

 

注意は今ここになく、

 

呼吸にも意識はなく、

 

雑念まみれで、

 

心は過去の恨みと未来への不安でいっぱいで、

 

自我にとらわれています。

 

しかし、もうそうした状態をどうにかしようという気も起こらないので、

 

ただそれらに気づいています。

 

この無抵抗の日々を重ねることで、私に不思議なことが起こります。

 

満たされている感じが、じわじわと湧き上がるのです。

 

「マインドフルでなくてもいいじゃん」

 

そして今・・・

 

相変わらず私は、まるでマインドフルではありません。

 

注意散漫で、

 

傲慢で、

 

しばしば被害妄想にとらわれます。

 

しかし、そのことをただ認識しています。

 

そして、そのままにしています。

 

マインドフルになろうとせず、

 

ただ自分がマインドフルでないことに気づいています。

 

心はしょっちゅうざわつきつつも、ときおりちょこっと洞察めいた発見があります。

 

高揚感のない、ぼんやりとした明晰さ。

 

ああ、そうか。

 

私は理解します。

 

実はこれが、私のマインドフルだったのです。

 

マインドフルとは、

 

マインドフルになろうとすることでも、

 

マインドフルであろうとすることでもない。

 

集中できなくていい。

 

雑念だらけでもいい。

 

恐怖にとらわれていてもいい。

 

自我に振り回されていてもいい。

 

大した気づきはなくてもいい。

 

ただ気づいていること。

 

マインドフルとは、それだけだったのです。

 

そしてそれは、きわめて奥が深いことだったのです。

 

だから私は、今日も坐ります。

 

マインドフルであろうとせずに。