むなしさは、ひとつの虚像との決別。
自分から何かがそぎ落とされようとするサイン。
僕は今日も、この詩を歌うだろう。
なりたい自分になろうとすること。
現代では、それが美徳だと信じられているように、僕には感じる。
僕はこれを徹底的に疑った。
なりたい自分になろうとすることは、本当に美しいことなのか。
僕は答えを求めずに、自問し続けた。
なぜなら、僕にはそれが苦しすぎたから。
胸が引き裂かれるような渇望。
激しい嫉妬心。
ムラムラと沸き起こる対抗心。
周囲との軋轢。
そして何よりも・・・
なりたい自分ではない、今の自分の否定。
理屈ではなく、勝手に起きてくるこれらの激情。
僕にとって、それらへのとらわれは、地獄以外の何ものでもなかった。
だから僕は、我が身をもって実験をした。
なりたい自分になろうとする思考に同調することをやめた。
そして、内面渦巻くこの激情に、ただ気づき続けた。
今ここにいる自分自身に、
呼吸に、
身体に、
心に、
できるかぎりで意識を置いた。
これはシンプルな取り組みだった。
が、簡単なことではなかった。
当然のごとく、思考は僕を誘惑してくる。
なりたい自分にならせようとする。
思考が強迫をする。
「なりたい自分になれないと危険だぞ」と。
とても不快だ。
しかし、これがただの強迫であることも、僕は知っている。
この強迫に乗ったなら、またあの不毛な達成ゲームが繰り返されることも、僕は熟知している。
だから僕は、これに取り合わない。
もちろん否定もしない。
そしてまた気づき続ける。
何度も何度も。
これが不快さを伴うとはいえ、なりたい自分になろうと努力するときのあの感覚、
どうにもならないもどかしさ、
搔きむしられるような劣等感、
どこまで行ってもたどり着かないかんじ、
それらに比べれば、まるで耐えられるものだった。
これを忍耐強く繰り返したとき。
僕の気づきは、意識的に何かになろうとする思考の本質をすっかり理解していた。
それは、
権力への野心と根本的に同じだった。
そして僕は、なりたい自分になろうとすることを完全にやめていた。
なりたい自分になろうとしないとき。
僕に驚くことが起こった。
なりたい自分というものが、もはや心に存在していなかった。
他者への憧れというものが、見当たらなくなっていた。
そして、いつのまにか、なりたかった自分になっていた。
いや、なっていたのではない。
実は、はじめからそうだった。
そのことに気づいた。
そこには意図的なぎこちなさはなかった。
きわめて自然で調和的だった。
そう。
なりたい自分になろうとしないこと。
それは、あるがままの自分で生きるということ。