本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

空虚な詩④ なりたい自分になろうとしない

むなしさは、ひとつの虚像との決別。

 

自分から何かがそぎ落とされようとするサイン。

 

僕は今日も、この詩を歌うだろう。

 

 

なりたい自分になろうとすること。

 

現代では、それが美徳だと信じられているように、僕には感じる。

 

僕はこれを徹底的に疑った。

 

なりたい自分になろうとすることは、本当に美しいことなのか。

 

僕は答えを求めずに、自問し続けた。

 

なぜなら、僕にはそれが苦しすぎたから。

 

胸が引き裂かれるような渇望。

 

激しい嫉妬心。

 

ムラムラと沸き起こる対抗心。

 

周囲との軋轢。

 

そして何よりも・・・

 

なりたい自分ではない、今の自分の否定。

 

理屈ではなく、勝手に起きてくるこれらの激情。

 

僕にとって、それらへのとらわれは、地獄以外の何ものでもなかった。

 

だから僕は、我が身をもって実験をした。

 

なりたい自分になろうとする思考に同調することをやめた。

 

そして、内面渦巻くこの激情に、ただ気づき続けた。

 

今ここにいる自分自身に、

 

呼吸に、

 

身体に、

 

心に、

 

できるかぎりで意識を置いた。

 

これはシンプルな取り組みだった。

 

が、簡単なことではなかった。

 

当然のごとく、思考は僕を誘惑してくる。

 

なりたい自分にならせようとする。

 

思考が強迫をする。

 

「なりたい自分になれないと危険だぞ」と。

 

とても不快だ。

 

しかし、これがただの強迫であることも、僕は知っている。

 

この強迫に乗ったなら、またあの不毛な達成ゲームが繰り返されることも、僕は熟知している。

 

だから僕は、これに取り合わない。

 

もちろん否定もしない。

 

そしてまた気づき続ける。

 

何度も何度も。

 

これが不快さを伴うとはいえ、なりたい自分になろうと努力するときのあの感覚、

 

どうにもならないもどかしさ、

 

搔きむしられるような劣等感、

 

どこまで行ってもたどり着かないかんじ、

 

それらに比べれば、まるで耐えられるものだった。

 

これを忍耐強く繰り返したとき。

 

僕の気づきは、意識的に何かになろうとする思考の本質をすっかり理解していた。

 

それは、

権力への野心と根本的に同じだった。

 

そして僕は、なりたい自分になろうとすることを完全にやめていた。

 

なりたい自分になろうとしないとき。

 

僕に驚くことが起こった。

 

なりたい自分というものが、もはや心に存在していなかった。

 

他者への憧れというものが、見当たらなくなっていた。

 

そして、いつのまにか、なりたかった自分になっていた。

 

いや、なっていたのではない。

 

実は、はじめからそうだった。

 

そのことに気づいた。

 

そこには意図的なぎこちなさはなかった。

 

きわめて自然で調和的だった。

 

そう。

 

なりたい自分になろうとしないこと。

 

それは、あるがままの自分で生きるということ。

 

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