本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

とらわれないこと


壱・無執着への試み

 

執着とは何かにつけて自分を束縛するもの。

 

そのことを僕たちは、思考レベルでじゅうぶんすぎるほど心得ています。

 

だから執着しなければ、苦しみは少ないはず。

 

僕たちはそのように考えることでしょう。

 

すでに紀元前の時代から、ブッダが無執着について説いているのも、執着が精神を不自由にするということがわかっているからです。

 

ここまでの人生で嫌というほど執着の害悪を体験してきたあなたも、執着をやめようと努力してきたのではないでしょうか。

 

にもかかわらず、僕たちはやはり様々なものに心とらわれるのです。

 

当然僕も、その例外ではありません。

 

だから僕たちは、もう一歩先を理解する必要があるのかもしれません。

 

弐・無執着への執着

 

執着しない人間になろうとする努力。

 

あなたがずっと続けてきた、この苦行にも似た取り組み。

 

実はこれもまた、形を変えた執着ではないかということです。

 

逆説的な言い方ですが、とらわれないということにとらわれているのかもしれません。

 

これは仏道修行でもありがちなことです。

 

「悟る」ということに必死で、悟っていない自分を裁いてしまう。

 

本来、執着しないことが悟りなのですが、悟りというものに執着してしまっているのですね。

 

皮肉なことです。

 

もちろんこれらはすべて、善良な思念に由来するものであり、偉大な努力であることは疑いようもありません。

 

しかし、そろそろ執着に対する関わり方を見直すときなのかもしれません。

 

参・心は執着するもの

 

結論から申し上げます。

 

とらわれないようになろうとする努力は、まずうまくいかないでしょう。

 

ここまでであなたもおわかりのはず。

 

心とは、抑圧によって制御することはできないのです。

 

ある程度はできたとしても、限界があるのです。

 

それはあたかも、どんなに堅固なダムを造っても水害を完全に防ぐことができないのと同じようなことです。

 

心とは大なり小なり、欲を感じるものや嫌悪を感じるものにとらわれてしまうもの。

 

それが自然の摂理なのだと、そろそろ認めてもいいのかもしれません。

 

肆・とらわれていることに気づく

 

瞑想においても、基本姿勢のなかに「とらわれないこと」があります。

 

それは、とらわれないように抵抗するということではありません。

 

何かに心がとらわれているとき、とらわれていることを自覚し続けるということです。

 

これは非常に忍耐が必要な態度です。

 

なぜなら、とらわれているという状態は極めて不快だからです。

 

僕たちはとらわれた心をすぐに対象から引きはがしたくなることでしょう。

 

だからその衝動にも気づくことです。

 

そして、とらわれている心をなるべくそのままにしておくのです。

 

実際にとらわれている心に抵抗することも、多々あることでしょう。

 

それでもかまいません。

 

大切なことは、気づくこと。

 

これを忍耐づよく繰り返したとき。

 

あなたは理解するでしょう。

 

とらわれている心をなるべく変えようとせず、

 

ただとらわれているという事実を認め続けることで、

 

執着心が少しずつ溶けていくということを。

 

実は、心がとらわれていること、それ自体が問題なのではないのです。

 

心がとらわれていることに気づかずに、誰かを傷つけてまで我を通そうとすること。

 

それこそが害毒だったのです。