本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

受け入れるということ


受け入れるとは

 

それをそれと認めること。

 

それが受け入れるということ。

 

苦しみを苦しみと認める。

 

不快を不快と認める。

 

好きを好きと認める。

 

郵便ポストが赤く見えるなら、ポストは赤いと認める。

 

仕事が馬鹿馬鹿しいと感じるなら、馬鹿馬鹿しいと感じていることを認める。

 

それが受け入れるということ。

 

不快なものを快だと自分に思い込ませようとすること。

 

ネガティブな感情をポジティブな感情に置き換えようとすること。

 

感じていることを感じていないと偽ること。

 

それは受け入れていないということ。

 

ただ認めていればじゅうぶん

 

もちろん、不快と感じているからといって、わざわざ「不快だ」と言葉にしなくてもいい。

 

態度に表さなくてもいい。

 

不快なものを追い出そうと行動しなくてもいい。

 

ただ「不快だ」と自分が認めていればいい。

 

受け入れるとは、それでじゅうぶんだ。

 

感じ方を信じる

 

受け入れる際、自分がどう感じているかを知ることがとても大切になってくる。

 

というのも、自分の感じ方以外にものさしがないからだ。

 

だから自分の感じ方を信じる必要がある。

 

しかし、これはなかなか難しい。

 

思考がしゃしゃり出てくるからだ。

 

「ポジティブな人間のほうが、他人から好かれるぞ。だから不快だと感じないようにしよう」

 

「本当はこれが嫌いだが、好きだと言っておけば皆の印象は良いだろう。ならば自分はこれが好きだと感じるべきだ」

 

損得などの理屈を持ち出し、感じ方を書き換えようとする。

 

こうして不快さは、受け入れられる前に押し殺される。

 

これは一瞬の出来事なので、気づかないことすらある。

 

とはいえ、この思考をやめさせようと格闘することも、功を奏しない。

 

そのことを僕たちは嫌と言うほど知っている。

 

だから僕たちは、思考を受け入れる必要がある。

 

思考を思考と認めるのだ。

 

もちろんそれが簡単なことだとは言わない。

 

自分の内面で起こる動きを、なるべく善悪判断せずに観る眼を養う必要があるだろう。

 

そのためには自分が行う善悪判断にただ気づくことだ。

 

終章・ただ坐る

 

そこであなたはがっかりする。

 

「やれやれ、また自分を変える努力が必要なのか」と。

 

僕はあなたがここまで散々努力を尽くしたことを知っている。

 

だからあなたに言うだろう。

 

自分を変えようとしなくていい、と。

 

「これはあなたがここまで続けてきたような類の努力とはまるで違う」

 

「むしろ不要な努力を手放すことにつながるはずだ」

 

「さあ、理屈は脇に置いて、ただ坐ろうか」

 

瞑想とは、あるものをただあるがままに観ること。

 

それは受け入れることにほかならない。

 

受け入れることによって、あなたはおのずと望ましい方向へと変容していくだろう。