どうにもならないことを受け入れる
彼は言う。
どうにもならないことを、どうにもならないと認めること。
このように、どうにもならないということを受け入れるなかに、真の解放がある。
なぜなら、どうにもならないことに向けられていた私たちの注意は、それ以上そこに留め置かれる必要がないからだ。
私たちの意識は、これによって自由を取り戻す。
もし進みたいのなら、そこからまた一歩を踏み出すこともできる。
彼は続ける。
どうにもならないことを、都合のいいものに変えさせようとすること。
このように、どうにもならないことに抵抗すること。
現代ではこれが、ものごとの解決法だと信じられているのかもしれない。
しかしこれは、真の束縛である。
なぜならこれは、終わりなき戦いにほかならないからだ。
この戦いを降りないかぎり、私たちの注意はそこに固着することになるからだ。
私たちの心理的な時間は、そこで停滞することとなる。
彼は結ぶ。
これ以上努力できないほど努力してきたあなたは、きっと理解することだろう。
この世界で問題視されていることは、実は我々の力ではどうにもならないことばかりなのだということを。
本当の意味で、人間の意思でそれらを解決することは、できないのだということを。
思考にできることは、帳尻合わせと一時しのぎまでではないだろうか。
だから私たちは、ただ観るだけでいい。
そして、委ねていればいい。
うまくやろうとせず、ただ行為していればいい。
気づき続けていれば、気づきはおのずと私たちを、自らに適したところへ運んでくれるだろう。
そして問題だと思われていたことは、時の流れとともに形を変え、調和のなかに消えていくだろう。
それが自然の摂理。
そう。
人間の思考が問題を解決するのではない。
大自然がその自浄作用によって、問題を変容させるのだ。