本質で生きるマインドフルネス

瞑想おじさんの自己解放記

自覚ある行為に間違ったものはない


マニュアルにとらわれる

 

私たちは、正しい行為というものを求めて、生き方のマニュアルを探すことがあるかと思います。

 

これだけ正しさというものが要求されるように見える社会。

 

それは無理もないことだと思います。

 

もちろん私もそうでした。

 

自分が行うことが間違いだらけだと信じていたので、

 

この半生は、絶対的な生き方の手引きを探し求めていました。

 

仏教の戒律を覚えようとしたり、

 

心理学の本から、正しい行動パターンというものを学ぼうとしたり、

 

ヨーガのヤマ・ニヤマを厳守しようとしたり。

 

もちろんこうした時間は、私にとって有意義なものでした。

 

運気が下がりにくい行為というものがどういうものであるか。

 

それを知る良い参考になりました。

 

しかし、私はそれに依存していました。

 

マニュアルにとらわれて、それらに合わせようとしていました。

 

私の心は、常にこう言っていました。

 

「こういう場合、どうすればいいんだっけ?」と。

 

行動のたびにそれらを思い出そうとすることは、大変なストレスでした。

 

そして私にとって、生きるということ自体が、必要以上に窮屈な作業となりました。

 

自覚ある行為に間違ったものはない

 

しかし、瞑想を実践し、私は理解しました。

 

マニュアル化されるような正しい行為というものは、無いのだということを。

 

なぜなら、自覚のある行為はすべて正しいからです。

 

いや、厳密に言うならば・・・

 

正しいのではなく、間違いではないというほうが、適切かもしれません。

 

ここで言う自覚とは、

 

自分はいい大人であると言い聞かせるとか、

 

自分は社会人として恥じない行為をすべきであるとか、

 

そういったイメージとしての自覚ではありません。

 

自分が今、そうであるとわかっているということです。

 

自覚のある行為。

 

すなわち、自分がそれをやっているとわかって、やっている行為。

 

これらにはすべて、間違いはないのです。

 

遠慮していると自分でわかっているのなら、遠慮してもいいのです。

 

恐怖におののいていると自分でわかっているのなら、恐怖におののいてもいいのです。

 

人の思惑に振り回されていると自分でわかっているのなら、人の思惑に振り回されてもいいのです。

 

人を馬鹿にしていると自分でわかっているのなら、人を馬鹿にしてもいいのです。

 

逃げていると自分でわかっているのなら、逃げてもいいのです。

 

すべて、間違いではないのです。

 

もしかするとあなたは、私のこれらの例示に抵抗があるかもしれません。

 

もちろん、抵抗があってもいいのです。

 

抵抗していると自分でわかっているのなら、私の言葉に抵抗してもいいのです。

 

それもまた、自覚のある行為です。

 

間違いではないのです。

 

ただ、この「間違いではない」の真意を誤解しないでいただきたいのです。

 

自覚のある行為をすることで、自分に都合の悪いことは一切起こらない、という意味ではないということです。

 

残念ながら、どんなに手を尽くしても、自分に都合の悪い出来事を完全に無くすことはできないし、

 

逆に、取り立てて対策を講じなくても、自分に都合のいい出来事が起こることはあるでしょう。

 

仮に自覚のある行為を行った結果、自分に都合の悪いことが起こっても、

 

それも含めて、間違いではないということです。

 

人生は塞翁が馬

 

そして、私たちは理解することでしょう。

 

ここでいう自覚のある行為を続けていれば、

 

都合の悪い結果のことは、そうそうは起こらないのだということを。

 

もしくは、起こったとしても、その後で自分なりに適切にフォローできるのだということを。

 

だから私たちは、ただ気づき続けていればいいのです。

 

自分の内面に起きてくることを。

 

そして、気づき続けることで、私たちは思い知るのです。

 

人生は塞翁が馬であるということを。

 

この一連の理解によって私たちは、人生をむやみにコントロールしようというはからいを、自発的に手放すことでしょう。

 

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