本質で生きるマインドフルネス

人生をあきらめたおじさんの手記

自分自身になるということ

心ある瞑想の指導者は、共通してこう述べる。

 

「瞑想をすると、自分自身になる」と。

 

彼もまた、瞑想によってそれを実感した一人だった。

 

 

地獄

 

いつからかは忘れたが・・・

 

彼は子どもの頃から、自分の感じ方や考え方は、周囲と比べておかしいと思っていた。

 

だから、我が身に起こる感じや考えを押し殺す癖が身についていた。

 

彼にとってそれは、あまりにも当たり前でありすぎたので、押し殺しているということすら自覚していなかった。

 

いつからかは忘れたが・・・

 

彼は子どもの頃から、そのままの自分は周囲より劣っていて恥ずかしい人間だと思っていた。

 

だから、努力して優れた人間にならなければならないと思っていた。

 

成人してからも、自分の性格を「まともなもの」に変えさせようと努めていた。

 

しかし、どんなに頑張っても、満足するような人間になどなれなかった。

 

常に自分は間違いであるという想いにとらわれ、

 

首筋の後ろに刃物を突き立てられているような切迫感があり、

 

ひとときも心休まることがなかった。

 

それは地獄だった。

 

瞑想との出会い

 

そんな日々を30年近くは繰り返しただろうか。

 

彼は、そんな自分自身への関わり方に限界を感じた。

 

そして疑問が起こる。

 

なぜ、自分を変え続けなければならないのか。

 

なぜ、そのままの自分ではいけないのか。

 

「もうこんな不毛な努力への加担は、できるかぎりでやめにしたい」

 

そして彼は、瞑想に出会った。

 

彼は可能性を感じていた。

 

これならば、きっと押し殺す癖を終わりにすることができる。

 

自分を変えようとする努力を手放すことができる。

 

それは彼にとって、長く続いた地獄が終焉する兆しだった。

 

そして自分自身になる

 

彼は毎日坐った。

 

ただそっと意識を置いた。

 

そして日々の暮らしでも、今そのままの自分にただ気づき続けた。

 

自分にとって都合の悪い感情や思考が起こっても、できるかぎりでただそれらの存在を認めた。

 

そんなことを何日も何か月も何年も、怠ることなく忍耐づよく繰り返した。

 

それは簡単なことではなかったが、彼は自然と続けていた。

 

というのも、瞑想には、自分の内にある苦悩の根本に働きかける何かがあるように感じられたからだ。

 

こうした過程のなかで・・・

 

彼は、自分が少しずつ、今そのままの自分を許容していることに気づいた。

 

決して他より優秀な人間などではない、等身大の自分を容認していることに気づいた。

 

あるがままの自分に立ち返っていることに気づいた。

 

そして彼は理解した。

 

自分の感じや考えを押し殺さなくても、

 

すばらしい人間になろうと努力しなくても、

 

実は今このままの自分で、何も問題なく生きられるのだということを。

 

どこかにたどり着こうともがかなくても、

 

自分を変えようと努力しなくても、

 

ただ自分の内面に気づき続けていれば、

 

真に自分が変わる必要があるときに、おのずと全体に適した変容が、自らに訪れるのだということを。

 

「本当に何も、変えようとしなくていいんだ」

 

そのことがはっきりとわかったのだ。

 

彼は他と比べて特別な自分ではなく、

 

まさに自分自身になった。

 

そしてもう、自分以外の何かになろうとはしないだろう。

 

瞑想は本当の意味で、彼を救ってくれたのだった。

 

自己解放に終わりはない

 

もちろん自己解放の日々に、「これで終わり」ということはない。

 

今後も連綿と続いていくだろう。

 

おそらく死に至るまでずっと。

 

しかし彼に迷いはなかった。

 

なぜならこれは、瞑想に出会うまでの閉塞感に満ちた苦行とは、まるで違う営みだからだ。

 

慈しみ

 

喜び

 

可能性

 

この営みには、人為的ではないそれらがある。

 

だから彼は、今日も坐る。

 

ただそっと意識を置き続けて。

 

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