私たちが時間だと思っているもの。
時計で測れるような時間。
今、何時何分であるというようなことや、
何かをするのに何分かかるというようなことや、
いついつまでに何々をしなければならないというようなこと。
私たちはこの区切りこそが、実在する時間であると信じてきた。
だがもしかすると、そうではないのかもしれない。
私たちは、思考を思考であると認めることで、
これらの時間は思考の産物であることがわかるのである。
この時間は、測定のための道具である。
もちろんこの道具は、人間にとって大変有用なものであることは疑いのないことであろう。
しかし、これらは真の時間であるといえるだろうか。
もし真の時間というものがあるのならば、それは一体何なのだろうか。
そこに佇み、ただそっと意識を置くこと。
この開かれた優しい注意は、私たちに時間についての理解を与える。
本当の意味での時間というものは、どうやら時計が示すものではないらしい。
それは今ここにある。
今こことは、永遠のなかの一瞬である。
そう。
真の時間とは、永遠のことなのである。
それを私たちは、思考ではなく気づきで感じ取る。
理解できなくても何も問題はないが・・・
これは決して、神秘的な話ではない。
永遠とは、修行によって到達できる場所でも、特殊な能力によって生み出せる時間でもない。
霊的に優れた人だけの独占物でもない。
永遠とは、私たちに等しく開かれているものである。
まさに、今ここにあるものなのである。
そして、私たちがただ気づくことで、今ここで触れることができるものである。
「触れている」とはっきりとわからなくても、あなたが今の自分自身に気づいているなら、きっと触れているのである。
私たちが事態をいじくり回さないならば・・・
この永遠という時間の流れは、ものごとを自然な姿に変容させるようだ。
まるで踏み荒らされた砂漠が、人間が修正を加えなくても、ときと共にその風紋を描き直すように。
時間を部分に切り分けて観るなら、
ときに不都合な出来事や痛ましい事件もあるかもしれないが、
永遠という流れで観るなら、
この流れは、確実に全体を浄化させているのである。
自然治癒力とはまさに、これなのかもしれない。
この理解は、私たちをむやみな行動から解放する。
そして私たちを、行動しなければならない存在から、単なる存在へと立ち返らせてくれるのである。
純粋な行為は、ここから生まれるのである。
今ここという永遠は、私たちの精神をも浄化するのである。