元に戻すということ
禅では、元に戻すということを大変に重要視します。
たとえば、香炉に刺して焚いたお香が燃え尽きたとき。
その都度、お香の燃えカスである灰を除去し、香炉の灰をならすようです。
香炉を使用前の状態に戻しているということなのでしょう。
また、禅寺の僧侶が掃除に多大な時間を費やしているのも、その表れであるといえるでしょう。
都度で付着した埃や汚れ等を払い、現状復帰を行っているのでしょう。
私はこうした説明を禅師から受けたわけではありませんが、そのように解しています。
もし違っていたらごめんなさい(笑)
なぜ元に戻すという作業が大切なのでしょうか。
それは、元に戻すことによって、それが次にすぐに使えるようになるからではないでしょうか。
キーボードのブラインドタッチは、指の位置がホームポジションにあるからこそ、次のキーが打てます。
居合切りは、刀が鞘にあるからこそ、新たな一太刀が振れます。
ドアは閉まっているからこそ、用をなします。
だから私たちは、それらを使ったあとは、できるかぎりでそこへと戻すのではないでしょうか。
禅僧が香炉の灰をならすのも、そうすることで、次にすぐに香炉が使えるからではないでしょうか。
私たちが使った道具を片付けるというのも、それと同じことなのでしょう。
道具を元の状態に戻し、次にすぐに使えるようにする。
そして、次に使う人は自分とはかぎりません。
私たちが片づけることによって、次に使うであろう誰かが、それをすぐに使用できるのです。
だから片づけというのは、すばらしい貢献だといえるのはないでしょうか。
余談ですが・・・
自分が社会の役に立つには何をすればいいのかとか、そんなことを考えるのに疲れたあなた。
とりあえず、家の食器でも片づけたらいかがでしょうか。
壮大な夢を描くのも楽しいことかもしれませんが、それだけでもじゅうぶんに全体の役に立っているのではないでしょうか。
たとえそれが、自分しか使わないような食器であったとしても、です。
そして、もし本当に私たちに天分というものがあるのだとすれば、そうした平凡に見える日々の繰り返しから、自然に出会うものではないでしょうか。
さて、話を戻しましょう。
もうおわかりだと思いますが・・・
瞑想もまた、元に戻すという作業の繰り返しです。
私たちの注意というものは、必ずといっていいほど、今ここではないどこかへ行ってしまいます。
今何かをしていても、すぐに別のことに思いをはせます。
私もそうです。
車の運転をしていても、心はすぐに哲学的な問いをはじめます。
めんどくさいやつです(笑)
しかし、これを正そうとする必要はないのです。
なぜなら注意とは、根本的にさまようものなのです。
それが心の自然な動きなのです。
だから、私たちは心がさまよっていることに気づくだけでいいのです。
気づいた後で、私たちはそっと意識を自分自身の身体や呼吸に戻します。
何度も何度も、この一連の気づきを繰り返します。
この、意識が今ここにあるということ。
これが心のホームポジションなのではないでしょうか。
きっとあなたも、瞑想を続けることでご理解いただけると思うのですが・・・
意識が今ここにあるとき。
心は「使えるようになる」
つまり、心は大きな力を発揮するというわけです。
とはいえ、意識を今ここに置こう置こうと努力しないことです。
きっとそれは、うまくいかないでしょう。
繰り返しになりますが、ただ気づくだけでいいのです。
心が今ここにないということに気づいたとき。
私たちの意識は、すでに今ここにあることと同じなのです。
さあ、言葉はこのぐらいにしておきましょうか。
理屈は脇に置き、坐るとしますか。
真に大切なのは、実践することです。
気づき続けることです。
そのとき、あなたの心は、今ここにあるのです。