今回の記事に記載したことは、あくまで私の方向性なので、あなたは真似をする必要はありません。
ただ、何かの参考になる方もいらっしゃるかと思い、公開させていただきました。
いきなりですが、私の性格は、優柔不断です。
どの納豆を買うかというようなささいなことも、迷うことがあります。
仕事をやめるかどうかというような大きな決断など、もってのほかです。
自分の意志で決めることなど、できようはずがありません。
私自身、このことをずっと問題視してきました。
そして、なんとか優柔不断を解消しようと努力してきました。
迷わない人になるというようなマニュアル本を実践したり、
細かいことを気にしないふりをしたり、
迷わず決められるように見える人の真似事をしたり。
この結末は、もうおわかりかと思います。
優柔不断が解消するなどということはありませんでした。
優柔不断な私が、即断即決の人間になったりはしませんでした。
しかし、瞑想を実践するようになり、私は理解しました。
ものごとというものは基本的に、決めようとしなくていいのだということを。
ここでは、自らの心との関わり方に焦点を当て、主に全体の視点からお伝えしますので、他者に相談するという手段については一切触れません。
それでは、私の内面を観てみましょう。
何かしらの選択が必要な時、私の自我意識は迷います。
それとともに、対抗措置として、自分で早く決めようという意思が働きだします。
迷いも早く決めようという意思も、どちらも自我意識によるものです。
これらが起きてきたときは、身体の感覚などではっきりとわかります。
おそらくこれに関しては、私にかぎらず、瞑想を日常で実践している方であれば、体感しているのではないかと思います。
できるかぎりでこれらをそのまま眺めます。
そして、迷いにも早く決めようとする自らの意思にも安易に同調せず、積極的には決めないでおくのです。
これはつまり、自我意識に決定権を与えないということです。
この過程では、大なり小なり不快さを伴うこともあります。
しかし、これは人生における実験です。
実験には忍耐が必要なのです。
これを様々な局面で何度も何度も行うことで、少しずつ見えてくるのです。
自ら積極的に決めようとしなくても、時の流れとともに、ものごとはおのずと決まっていくものだということが。
自分の迷いや意思を脇に置き、流れにゆだねることで、判断材料が自然と浮かび上がってくるのです。
もしくは、何かに決めざるをえないような必然が起こるのです。
決めるというより、自然と決まるというかんじでしょうか。
こうして決まったことというのは、総じてそのときの自分にとって適したものであるということも、私はわかりました。
たとえそれが、自分の好きなものでなかったとしても、
世間一般で望ましいと言われるものでなかったとしても、です。
それがそのときの自分に相応のものだったということは、後になってわかることかもしれませんが。
「自分で積極的に決めようとしないのに、自分に適したことに決まる?」
「そんなわけないだろう」
あなたは、これを信じられないかもしれません。
もちろん信じられなくても、何も問題はありません。
信じられないのなら、信じようとしないことです。
しかし私は、全体を観続けることで、これを理解しました。
ささいなことも、大きなことも含め、
決断というものは、本当に私個人の意志によるものなのでしょうか。
自分だけで決めたかのように見えることも、実は全体のなかの複雑なバランスによって、成り立っている出来事なのではないでしょうか。
全体のなかで、私の意志を超えた決定が起こる。
少なくとも私には、そのように見えます。
だから私は決めようとせずに、全体の流れにゆだねるのです。
もちろん、決めようとすることが悪いことだなどと言うつもりは、一切ありません。
決断したい場合は、積極的に決断していただいていいのではないでしょうか。
決断したくて行った決断もまた、そのときの自分に適した結果をもたらすはずです。
なぜなら、決断したい意志もまた、全体のなかで起きてくることのひとつだからです。
私は今も優柔不断です。
しかし、取り立ててそれ自体が問題だとは感じません。
むしろ迷いや決めようとする意思に過剰に反応するほうが、私にはよほど問題です。
私の場合、自らの優柔不断を問題視しすぎることが、真の問題だったのです。
優柔不断は優柔不断なままでいいのではないでしょうか。
大丈夫。
ゆだねていれば、大自然が今の私たちにふさわしい決断を与えてくれます。