瞑想とは、何も目指さないこと。
何も得ようとせず、ただそっと意識を置くこと。
だから、僕たちはなるべく目指さない。
これを忍耐づよく続ける。
そのとき、目指さないことによって、僕たちに様々な恩恵が現れることに気づく。
それはリラックスであったり、
洞察であったり、
静寂であったりするかもしれない。
それが何であれ、
瞑想によって起こる恩恵は、すべて副産物であるということがわかる。
なぜなら、何も目指していないから。
もとよりそれを得るという目標を持って臨んではいないから。
「そうか、目指さないことで恩恵が得られるのか」
そこで、味をしめた欲張りな思考たちは、姑息なはからいをしたがるかもしれない。
恩恵を得るために、何も目指さないようにするかもしれない。
しかし、これはうまくいかない。
なぜなら、矛盾しているからだ。
何も目指さないという手段をもって、恩恵を得ることを目指しているからだ。
残念ながら、瞑想の恩恵はそこには訪れない。
何も目指さないとは、目指さないように努力することではない。
何かを目指したとき、目指したということに気づいていればそれでいい。
何かを目指す思考を押し殺したり、どこかへ追いやる必要はない。
ただそのままにしていればいい。
それが目指さないということ。
これを日常にも応用することで、僕たちは、日々の生活においても同じであることに気づく。
到達しようと努力したならば、それはどこまでも遠ざかり、
目指さないとき、いつのまにかそこにいたということに。
そのとき僕たちは、ひとつの真実を発見する。
現代社会で信じられていることは、順番が逆であるということを。
目指すから得られるのではない。
ただ存在し、ただ行うことで、自分に見合ったものを受け取れるのだ。
むしろ目標は、存在や行為の妨げにすらなりうる。
だから僕たちに目標はなくていい。
目標などなくても、ただ生きていれば、必要なものはおのずと与えられていることに気づくだろう。
しかし、あなたはまだ釈然としない。
「本当に目指さなくて大丈夫だろうか」
ひとつの危惧があるからだ。
「目指さなかったら、私は道に迷ってしまうのではないか」
あなたの不安はよくわかる。
僕もずっと、同じことを恐れていた。
瞑想に取り組むまでは。
だが、あなたはただ気づき続けることで、この危惧が取り越し苦労であることを知るだろう。
目指さないことで、あなたは真に自分に見合った方向へ進んでいることだろう。
なぜなら、目指さないとき、僕たちはそのときどきで自分にとってのベストな対処をしているからだ。
いっぽうで、思考で作られた目標は、しばしば意図的・野心的だ。
だから、あなたを得する結果に向かわせようとするかもしれない。
それはますます道を迷わせる。
なぜなら、得する結果とは、自他の意図によってころころと移ろうからだ。
目指すことで道に迷い、
目指さないことでベストな方向へ進む。
どうやらそれが、自然の摂理のようだ。
「そんな馬鹿な、これまで信じてきたことはいったい・・・」
あなたは呆然と立ち尽くす。
大丈夫。
気がすむまでそのむなしさのなかに浸ってかまわない。
ほどなくあなたは目の当たりにするだろう。
ここが逆説の世界であることを。
そしてあなたはまた、自分に適した時期に、自分に適したスピードで動き出すだろう。
何も目指さずに。